ギリシアの宮殿
冬の日差しは、どうにも温かい。紫外線の有害さはむしろ増すだろうが、夏のそれほど熱を持たず、冬の大気ほど肌を刺さない。
授業中、俺は自らの身体が宙に浮かぶのを見た。周囲は教室でもなく、俺以外の生命の影形もない。目の前に渺と聳え立つ、濃密にして不快な暗黒の霧としか表現不能なその障壁の様なものを突破すると、不思議な光を浴びて燦然と輝く星々がまるで意志を持つかのように遍在していた。
柔らかな午睡が魅せる幻覚。
その現と夢の狭間の空間で、俺は見知った男の顔を認めた。俺と定光の距離は隣合うこともあれば定光が遥か前方にいることもある。視認できる距離ではないはずだがその人型を俺が定光だと認識できるのは、ひとえにその茶色い、肩までの髪の毛によるものだった。
濃密な障壁を幾つも突破、あるいは飛翔、あるいは潜行する中で、俺は前方に定光の顔を認めていた。その表情は読み取れないが、これまで目印となっていたブラウンのヘアーカラーが急速にその色彩を失い、ぼんやりとした輪郭を持ったまま俺の視界から消滅した。
この時点で、俺は過去幾度もこの夢界へと誘われていたということを自ら思い出した。そうして定光の姿を見失った時点で、俺では進行不可能な領域がこの茫洋としたエーテルの大海に存在するのだと諦観を抱いていたことを思い出した。
俺の身体の自動的な飛翔は止まらず、普段とは全く異なる、まるで招かれているかのような気安さで、その濃密不快、粘着性のある冷たくて湿っぽい塊と表現すべき最後の障壁を通り抜けた。
「と――やっぱ、来れるようになったか」
最後の霧を突破すれば、広大無限の壮大なる宇宙に、対面するように設えられた、彫刻じみた大理石のギリシャ風のスロノス――背もたれのある椅子が二つ。その片方に、ここまで俺を導いた張本人が座っていた。
「ま、座れよ」
異論はない。摩訶不思議な現状ではあるが、しかしこの機を逃す手もあるまいと思う。幾度となく経験した記憶があり、今日この時になってようやく掴めたこの夢幻だ。目覚めれば塵と消える夢界の出来事であればこそ実感はなかったが、必ず定光が登場する。常同的に見る夢など、何らかの糸口になるに決まっている。また現状、Jとかかわりなく定光と会話できるチャンスと言える。
「お前が呼んでるのか? それともお前も俺も呼ばれてて、俺に資格がなかっただけなのか?」
「両方だ。まあそうカッカするなよ。時間は無限じゃないが、俺はお前に何があったのかは把握してるんだ」
何だと。読心か、記憶を覗かれているのか、はたまた昨日の劇場での一件も含め、知らんふりをしながら俺たちを監視でもしていたのか。まあそのどれであっても驚きはない。デジタル・モンスターの実在を目の当たりにした以上、どんな"ありえない"だって起こり得ることへと成り下がっている。
訝しむ気持ちを抑え込み、視線で話の続きを促した。
すると定光は右手を中空に掲げる。ぬらりと恐怖心を煽るかのような、それでいて吹けば飛ぶ影絵のように捉え所のない存在の出現。
一切の人的感情を解さぬことが否が応にも理解できてしまうそのヒトガタには、両肩と両腿に備わる硬質にして柔軟さを伴ったぬらぬらとした毒々しい紫色の鎧の表面に、蠢く"眼"が計四つ備わっていた。
身体の至る所から伸びる蔦が、各々意志を持った触手であるかのように動き回っている。それはさながら、昨日戦闘したハスターを連想させる。
「そいつは――ッ!」
遥か嘗て、地球に飛来した侵略者。その一味であろうと推察し、黄金のLegend-Armsの柄に手を掛ける。
「待て待て。コイツは俺のパートナーデジモンさ。名を聞けば、お前も一先ず戦闘の意志を収める筈だって」
「名前……?」
「よく見てみろ。『デジタル・モンスター』に詳しいお前なら、きっと分かるぜ」
無数の蔦。赤い角に青白い肌、そして人間の容姿を模していながら、異形の証として兜が瞳を隠している。
「……アルゴモンか」
「ご名答~」定光は茶化すように笑って続ける。
「尤も、既にお前たちに曰く"変質"しているらしいがね。俺はこの状態になってから出会ったから、本当のアルゴモンがどんななのかは知らねえ。が、少なくとも俺たちに害を与えるつもりはないらしい」
Jの使っていた"変質"という言葉。ウェンディモン=ウェンディゴ。デビドラモン≒ビヤーキー。アスタモン→ハスター。
これらの法則を鑑みるに、"変質"とはデジタル・モンスターが、太古よりこの惑星に潜むという外宇宙の存在に変貌する――先のJの言を信ずるならば逆か。外宇宙の神性がデジタル・モンスターと同一化し、その結果更なる異形と化すことだろう。
「アルゴリズムのバグから発生したアルゴモン。眠りを司るそれは、ギシリアの眠りの神ヒュプノスと同一化した。
ヒュプノスは、外宇宙から飛来した"ヤツら"と長きに渡り生存競争を続けていて、"ヤツら"――"旧支配者"とその眷属ども――からは"旧神"と呼ばれている神性の一角に値するらしい」
「待て、お前はあいつら――ハスターやウェンディゴについても知ってるのか」
「応とも。で、なんでお前が戦ったそんな奴らの事まで知ってるのかというと――」
「――君の脳波。それを私が操作できるからだ」
定光の言葉を、アルゴモン・ヒュプノスが引き継いだ。
「安静閉眼時のα波、興奮時のβ波、そして睡眠時のより周波数の低い徐波。これらを自在に組み合わせれば、眠りに堕ちながらにして自己を自覚する明晰夢を維持することは容易だ。今、君の脳波は4~12Hzを行き来している。
そして、REM期の夢という形でその記憶を見せてもらったよ。賞賛を贈らせてくれ。デジタル・モンスター化しているとはいえ、風の神性たる旧支配者を討つなどそうそうできることではない」
「そうかい。お褒めに預かり光栄だよ」
夢を覗ける。他者を眠らせられる。この上なく情報収集に向いた能力だ。しかし、だとすれば同じ教室にいるJの内心もコイツらには調べがついているんじゃないだろうか。
さて、そうなるとJを同席させずに用意したこの会合の意味も変わってくる。彼女の目的、それと定光、アルゴモンの目的が一致していない――同じ軸線状に存在しない可能性が高い。
何故なら同じ目標に向かってひた走るならば、その過程に人的被害や物的被害、手段の許容範囲の差などはあれど互いにすり合わせぐらいはして然るべきだ……コイツらとJが、共に俺を謀っている可能性もあるが、それは考えたとしてもどうしようもないので思考の片隅に追いやる。
無論この想定は推論に推論が重なった状態だ。アルゴモン・ヒュプノスに読心能力が備わっていれば確定的だが、そうでなかったとしても"旧神"がハスター達と敵対しているならば、基本的にはJと目的を同じくするはずだ。
「おっと、そう険しい顔すんなって。流石に黒歴史まで拝んじゃいねえよ。ここ数日、Jサンがやってきた前後からの記憶だけさ」
「我らとしては、"旧支配者"を打倒し得る君と敵対するつもりはない。口約束でしかないのは重々承知だが、その証左として受け取って貰えまいか」
この言動からは、目の前の二人もまた、外宇宙より飛来した"彼ら"を討ち滅ぼすために動いていると考えるべきか。
「じゃあ、その点について問い質さない代わり、いくつか質問に答えてくれよ」
鷹揚に首肯するアルゴモンに、何を問うべきか。
先に定光に言われた"見せたいもの"とは、アルゴモンのことで間違いないだろう。ここから導かれる会話を考えろ――そこに関する質問、例えば彼らの目的などについては、わざわざこの機に問う内容でもない。
まず、俺にここまで譲歩する理由は何か。一つはJとのパイプが最も太いからだろう。無論彼らから見て、俺がひょっとすればJの傀儡と化しているという想定もあるだろうが。他に考えられるとすれば、俺を――Legend-Armsを戦力として取り込みたいのか。
そこまで考えて、通学路での定光の台詞がフラッシュバックする。
――利用はさせてもらったさ。ああ、何かの足しにはなるかと思って、ウェンディゴの話を持って行ったし、カルト教団から買収した魔導書だって見せに行った。
『何かの足しになるかと思って』だ。つまり、彼らは彼らで旧支配者と討つに足る手段がある。十中八九が"<rb>旧神</rb><rt>アルゴモン・ヒュプノス</rt>"の存在か。
「――ん、あぁ。案ずることはない。読心など、全知全能の称号もなければ不可能だよ」
思索にふける中、思わず仮面の上の瞳に向けた視線に何を感じたか。
だが戦力自体があるのなら、こうして俺と会話をする理由など一つだろう。
俺は意を決し、問いを固める。
「……Jに関して、お前たちの所見を教えろ」
「……いいだろう」
●
彼女については、一言で述べるなら「何故ここにいる」。そこに尽きる。
と言うのも、だ。私がアルゴモン・ヒュプノスとなって以降――君もハスター化したアスタモンに理性が失われているのを見たように、そこに最早アルゴモンの意志はないのだが――私は真っ先に"アルゴモン"のデータを解析・閲覧した。そして驚愕に慄いた。
それは強固なプロテクトだった。己がデジタル・モンスターという存在になったことは理解していたからこの表現をしよう。尤も"ヒュプノス"が知らぬ間に、この惑星に表裏一体の裏世界が生まれているなど思いも寄らなかったがね。
私の困惑はさておき、自らの素体となったアルゴモンの記憶を読み解き、せめても依り代の使命や望みを代わりに果たしてやろうと考えていた私は、記憶領域からはアクセスできないように厳重にプロテクトを掛けられたブラックボックスに遭遇した。
それは見慣れない術式だったが、同時に見慣れた系統のモノだった――ああつまり、惑星外を跋扈する異形共の御業だった。
だから解除も容易だった。プロテクト・ウォールを掻い潜り、そこで見たのは歴史書の数冊では及ばぬほどの激動の時代だ。その全てが、一切、整合性に不備を持たず「なかったこと」にされていた。
有り得ん、有り得ん話なのだ。その後、多くの人間の記憶も覗いてみた――その全てが、全く同じように、リアルワールドすら激震させた幾つもの事変を記憶より隠されていた。
そして、その中心にいたのが、あの銀髪の女――Jと名乗る一人の人間だ。彼女は共に引き連れた金色のパートナーデジモンと共に、あらゆる争乱を沈めて見せた。だが、零落した熾天のなれの果ての怪物に挑んだところで、どの記憶も終わっている。ああ、そうだ。黄金のデジモンの名も、アルゴモンも、人間たちも識らなかったか。
いずれにせよ、二つの世界を巻き込んだ災禍の中心人物だ。その末路――行く末を誰も知らぬとはいえ、タダで済んだということもないだろう。
それが何故、この場この時に現れる。定光という"アルゴモン"本来のパートナーを見つけ出し、いざ"J"の代役として――そして"ヒュプノス"としての使命を果たすため、"旧支配者"と戦っている最中に、だ。
●
「"アルゴモン"や幾人もの人間の記憶を追体験したに過ぎぬ身なれど、<rb>私</rb><rt>アルゴモン・ヒュプノス</rt>は銀髪のJと名乗る女が救世に一役買ったことを知っている、君の他におそらく唯一の存在だ。
その立場から言わせてもらえば、両世界を脅かした傲慢の魔王型デジタル・モンスターとの決闘に何らかの決着を着け、彼女もまた"旧支配者"との戦いに身を投じた――と、好意的に考えられなくもない」
アルゴモン・ヒュプノスは躊躇いがちに言い切った。
ただし、それはあくまでもJが、"二代目J"本人であるという前提に基づく。
「傲慢の魔王に立ち向かい、そして銀髪の"二代目J"はどうなったのか。ともすれば、彼女は砕け散り、今この蛙噛市に現れた彼女は、邪神共の象った甘い罠なのではないか。そうなれば彼女自身の証言に信は置けず、私は疑心を抱かずにいられない」
「なるほど……聞かせてくれてありがとう。感謝する。記憶のブラックボックス化については、俺がJ本人から聞いた情報がある。役に立つかはわからないけど、後で提供――ああいや、俺とJの会話自体は知っているんだよな。じゃあ端折ろう。まあその前に……」
スロノスに深く腰掛け足を組んだまま、にやけ面で俺の表情の変化を楽しんでいるかのような宮里定光。彼に視線を向け、その内心を窺った。
「お前の意見も聞きたいね、宮里家の四男」
「あえてヒトの気に食わない呼び方をする反骨心は嫌いじゃないぜ……そうだな、美少女だと思う」
飄々とした調子だが、渋面を隠そうともしない。これに関してはいつも通りのやり取りだ。俺も彼も、互いのウィークポイントを把握してそれをつっついてコミュニケーションを取っている。
「んで、ほかに質問は?」
「答える気はない……と」
「オイオイ、おっかねえな。別に思うところはない……ってのが本音さ。お前に春が来たね、おめでとう……ってぐらい? 別段俺とアルゴモンに敵対する様子はなさそうだし? 有羽クンがパイプとしてその行動を教えてくれるなら、このまま二陣営、別方向から攻めてってもいいんじゃないかと思ってる」
「よく言うよ。教えてくれも何も、そちらにアルゴモンが付いている以上、俺とJの会話は筒抜けってことだろ?」
「まぁな」
悪びれもせずに。結局のところ、俺は後手に回らざるを得ない。
「他の質問はいい。情報交換はこんなとこだろ。今後の話を始めてくれ」
ゆえに、後手は後手なりに、場当たりで対処するほかない。高度な柔軟性を維持し臨機応変に――という訳だ。何がという訳なのか俺自身説明できないが、という訳なのだ。
「承知した。我らはかねてより――とは言っても、さほど長い付き合いではないのだが――この市に根付いたダゴン秘密教団の一派を炙り出そうと動いてきた。旧支配者の数だけ、カルトも存在するのでね。君たちが昨日対処した、ハスターを擁する黄の印の兄弟団に接触していたのもその一環だ。
"ダゴン"とは、古くは聖書によって古代パレスチナにおいてペリシテ人が信奉していた神格だが、遥かな昔にゾス星系より飛来し、ムー大陸を支配したクルウルウに敗北した後、その奉仕種族と化している水の神格だ。
クルウルウ自身は星辰の配置により、大陸ルルイエごと海底に沈み、今に至るまで封印されている。
この地のダゴン教団員がクルウルウ復活を目指しているのか、それとも読んで字のごとくダゴンに信仰を捧げているだけなのかは分からないが、どちらにしろ神性クルウルウと風の神性ハスターは敵対関係にあった」
「だから? 黄の印の教団員を吸収して降臨したハスターが討滅された今、ダゴン秘密教団の動きを阻害するものはいないっつースンポーよ」
定光のニヒルな笑みに少々イラっときた。
「で、だ。俺らはヒュプノスの能力で、街に起こった出来事を鋭敏に察知できる。ダゴン秘密教団と思しき動きがあれば、いい感じに偶然を装ってお前らに伝える。あとは場当たりだ。お前ら二人と共に行動するほど信は置けないが、ハスターを討った手腕については信用させてもらう」
「ああ、わかったよ」
そう、色々なことが分かった。ウェンディゴ症候群、黄の印の兄弟団、ダゴン秘密教団。この分には、もっと多くのカルト教団が蠢いていることだろう。
それらの事象がこれほど蛙噛市に集中しているのは、先に聞いていた通りJの狙い通りなのだ。
他にも、"旧支配者"の存在に"旧神"の存在。そして震えるJの口から聞いた、世界全体のテクスチャを張り替え得る超越的存在の実在も、アルゴモン・ヒュプノスとの会話で確証が取れた。
――ふと、引っ掛かりを覚えた。
「そう言えば、抜け目のないお前のことだ。『デジタル・モンスター』についてはどうせもう二人とも呼んでるんだろ?」
「? ん、あぁ、読んだぜ」
先程、ヒュプノスはアルゴモンの記憶の中から、黄金のパートナーデジモンの存在を話題に挙げた。
J著『デジタル・モンスター』の中でも、Jの相棒の名は巧妙に隠されたままだった。だが、あの動乱を目の当たりにしたデジタル・モンスターの記憶の中ならば、その名がはっきりする可能性がある。
「そのデジタル・モンスターの名前、アルゴモンの記憶の中にはなかったか? ひょっとすると、この――」
黄金の剣、Legend-Armsと何かかかわりがあるかもしれない。Jが俺に執心しているのも、ひょっとしたら……。そう言いかけつつズバイガーモンを彼らの前に提示しようとして――。
『……君。…三君、十三君!』
俺の意識は、眠りの神が齎す夢の中から急速に引き戻された。
●
潜行時にはいたく苦労した幾層ものエーテル壁を瞬時に飛び越えて、俺の意識は覚醒した。いきはこわいがかえりはよいよい、と言わんばかりの急速浮上。
薄明りに瞼を開けば、目の前には黒セーラー服に身を包んだレイラ・ロウの薄い胴と、俺の机にかけられた白く繊細な指先が。
頭を少し上に向ける。
「おはよう、十三君。ふふ、よーく眠ってた」
イタリア男を一瞬で求婚に持って行かせそうな微笑みで、Jが周囲の視線やひそひそ声を意に介さぬまま待っていた。
「……ぉう」
細心の注意を払い、寝起きの不機嫌な声を演出しつつ定光の方を盗み見る。小さく舌打ちしたのを見逃さない。
このタイミングで俺を目覚めさせたのが、意図的なものであると確信できる。そもそもイグドラシルの端末であると言え、神の御業による脳波の調律を、こうまで乱せるものなのか。ともすれば、"二代目J"は魔王戦役の後に没しており、彼女は本当に――イグドラシルの端末を名乗っているだけの、邪神の触覚なのではないか。
「この前約束した通り、今からデートに行きましょう?」
疑心暗鬼は加速する。