ChapterⅥ -The Nequitiaeque①-
時を少し遡る。
その部屋には、夥しい質量の魂が漂っていた。
その質量は常軌を逸した程で、空間そのものがその重さに耐えきれず、霊性を超越して質感を持った空気となって渦巻いている。
さながら睦みあう男女がそこかしこで動き回る、深夜の公園かの如き熱気と臭気。精気、と言う言葉があるように、高密度の魂が充満していれば、そういう臭いを示すことも不思議ではない。皮膚に絡みつくようなねっとりとした空気は、その空間の主の声質と著しく似通っている。
空間の主は、"社長室"の様なーー否、実際にここは"社長室"なのだがーーこの部屋の最奥、炎に燃え盛る戦車の意匠が刻まれた椅子に座り蹲っていた。
彼が背にしている椅子には、美麗な二人の天使の絵画。麗しきその容貌は、実在すれば性別問わず数多の人間を虜にすることだろう。
彼こそ"ベール"。ルイ・サイファーなる偽名を名乗る傲慢の朋友であり、結社『B.E.E.L』を設立した傑物でありーーデジタル・モンスター・ベリアルヴァンデモンである。
「よう、お前さんが"首謀者"っつーことでいいのかい?」
襤褸衣に身を包み、微動だにしないベリアルヴァンデモン。
社員全てが、怠惰の代行と色欲が激突した直後に"粛清"された結果、彼に声をかけるものはいない筈だった。無論粛清したのはベリアルヴァンデモン自身であり、その後この部屋で引きこもっていたことを鑑みれば、寧ろ誰かに話しかけられるのを待っていた
、と言えるのかもしれないが。
その正しさは、こうしてベリアルヴァンデモンに問い掛けた男への、悦ばし気な声が証明していた。
「強欲かドミニオン辺りが先陣を切ると思っていたが、成る程成る程。このようなイレギュラーも生じ得る。読みきれなかったのは我が身の不明であるな。全く面白い。
歓迎しよう。暴食ーーベル・ゼブブの力を継いだモノよ。よくぞきた。
その智慧・熱意・覚悟に敬意を表し、まずは今の質問に素直に答えよう。答えは是だ」
ベリアルヴァンデモンの目の前、机越しには茶髪のチンピラ然とした男が立っている。脳髄に纏わりつくかのような臭気を鬱陶しいと払うかのように、肺の中に煙草の煙を吸い入れては吐き出している。
「そうかい、その節はどーも。……この状況を見れば大方見当はつくが、テメエ一体何目論んでやがる」
"社長"の声を聞いて、桐彦は確信する。この男は、自分に道を示したあのウザったい声の主と同一の存在であると。
「知りたいかね」
「おうとも」
ここで漸く、ベリアルヴァンデモンは面を上げる。
「ではまず、君の推論から聞こうか。そこに指摘と訂正を加える方が、私としてはやりやすい」
「ふざけろ。ンなことされたら、テメエの都合のいいように操られるに決まってら。俺は他の奴より何より、お前みたいな奴だけは甘く見れねえ。
『無価値』『悪徳のために悪徳を愛する愚か者』。後は『反逆者』に、もっと直球に『悪徳』なんてのもあったか?何れにせよ、舌が二枚どころかウン十枚に分裂するような奴とマトモに会話できるたあ思っちゃいねえよ。テメエから話せ」
渡部桐彦は知っている。『ベリアル』という悪魔の危険性。
力こそ脆弱な、それこそ他の魔王に追随することすら不可能なただの堕天使。しかしベリアルは、その割にルシファーの右腕であるし、桐彦は未だ知らぬことだが、悪魔王本人が直々に「友だ」と公言している。
人を食った語り口。虚実綯い交ぜに過ぎる伝え方。ソロモン王の前で、神性四文字の使徒を相手に譲歩を勝ち取る程の才能。まともに交渉すべき相手ではないが、しかしその知識量はバベルの図書館が頭の中にあるかの様。
そう十全に承知していても、単身彼と会話してよいはずもなかった。
「そう取られてもやむを得ん伝わり方をしているが、そうハッキリと言うこともあるまい。なにせ悪魔とは多かれ少なかれそんなものだ。誠実な者もおらんではないが、それは召喚者に対するシャックスやセーレぐらいなもの。私の与えた情報の真偽、その有用性などは聞いたものが自ら考えるべきもので、こうして社長などと呼ばれている身からすると、現代の人間も同じようなことをしているように思うがね」
「なら話せ。キリキリ話せ。俺は正直テメエにムカついてるんだよ。クソウゼえ自己嫌悪なんぞさせやがって。俺はとっくに折り合いつけてンだよ」
蝿王の拳銃のみを具現化させ突き付ける。その表情に穏やかさは一片も無く、一歩対応を誤れば即座に魔弾を発砲しそうだ。しかし対するベリアルは愉快そうな表情を崩さず、その凶相に微塵も恐れを見せない。
「その割に、先日の一件は中々面白い見世物の様だったがね」
「お前マジでぶっ殺すぞ」
この場にルイ・サイファーか、ベルフェゴールの記憶を受け継ぐ針斗か、或いはせめてクラヴィスエンジェモンでもよいがーー誰か神代の知識を持つデジタル・モンスターが居ればよかった。
彼らは必ず、今のベリアルヴァンデモンの異変に気付けたことだろう。この堕天使は何よりも保身に走るはずだ。それなのに発砲を防ごうともしないとはあり得ないーーと。
天下の嘘吐きの居城に単身乗り込んだこと。まずこれが、桐彦の誤りだった。
「よかろう。ではお答えしよう。私の目的を、ここまでの経緯も踏まえてな。
そしてついでに、誰よりも早くここに辿り着いた君に、プレゼントもやろう」
そして無価値は語り始める。
偶然に、本当に偶然に新たな身体を得て蘇ったこと。そして強く復権を願うその理由を。それが真実かどうかは別としてーー。
「私はそもそも、盟友ルシフェルに次ぐ位階の天使だったのだよ。人間より召し上げられ、忌々しくもこの地を去ることを許されたあの小YHVHとも違い、正しく私とあの方は無謬の天使であった。今、この街の大病院を居城にしているセラフすら、天上における私よりも下だったのだ。
我らを貶めたYHVHの言う通り、驕りもあったのだろう。栄達を捨て、盟友と共に天に反旗を翻した。この辺りの顛末は君ならば知っているかね。
そしてその先も嫉妬から聞いておるだろう。君達人間は我らを忘れ、何もないあの世界へと追いやった。最早神魔の力は不要であると。無論それは混沌と創造を重んじ、人間を愛おしく思う閣下や私の考えからすれば寧ろ喜ばしいことで、その後幾星霜の"無"の苦しみにも耐えられたとも」
だがしかし、如何なる偶然が重なったか、『ベリアル』は『ベリアルヴァンデモン』として新たに自由を得た。
「私は思ったよ。再びこの地に覇を唱えることも。再び人間に手を課すこともできると。何れにせよ私は信仰を得て、在りし日を超える栄光をこの手にできるのではないか、と」
語りながら、時折苦し気な呻き声を出してみせるが、それが本当に苦しさによるものか、演技なのかすら分からない。
桐彦からみれば、この話題のどこにベリアルヴァンデモンの苦悶が関係するのかすらさっぱりだ。その上彼にしてみれば、この状況の首謀者であるというベリアルヴァンデモンは自分がベル・ゼブブに食われる遠因だ。容赦なく魔銃を突き付け続けている。
だがな、と悪徳は続ける。
「同時にこうも思った。『私が蘇った以上、既に蘇っている神魔や、これから蘇る神魔もまた居るはずだ』とな」
「そりゃそうだ」
「故、この会社『B.E.E.L』を立ち上げた。ベル・イアルとも呼ばれる私の咒[名]の由来であるベル神から取っているーーああ、君のベルゼブブや、君の友達のベルフェゴールのベルもそうだーーのだが、まあそれは置いておくとして、だ。
世界中に糸を張り巡らせ、私と同様の存在ーーデジタル・モンスターが他にいないかと血眼になって探したさ。幸いと言うべきか不幸と言うべきか、その時点では私以外には新生していない様だったがね。
そこから暫くは、真っ当に社長業などやって無聊を慰めていた。『怪物』等とも呼ばれ畏れられていたからな、それはそれで信仰を得ているのと同じ様なものだ。中々に充実した日々だったが……」
そこに、彼の盟友が訪れたのだという。ルイ・サイファーなどと言うバレバレの偽名を使って。
「無論、ある種竹馬の友であり、私が唯一敬愛するお方。あのジュデッカの如くに恐ろしくも美しい閣下との再会だ。狂喜したさ。そのまま暫くは、二人でデジタル・モンスター探しに明け暮れた。そして嘗ての同僚[天使]も含め、幾らかは同胞を見つけた時だ。
私は生来臆病な性質でね。こうも考えてしまったのだよ。いずれ再び、我らと同じく追放されたはずの『神聖四文字[テトラグラマトン]YHVH』すら蘇るのではないか、とな」
恐ろしげな身震いは真に迫っているが、彼という悪魔を知っていればいるだけ、それを疑わざるを得ない。
「可能性はあらァな。そもそも神サンが追放されてた、とは思わなかったわけだが」
「そうであろうさ。未だにアレの宗教そのものは根付いている様だからな。
そして、私は友と、閣下とこう誓ったのだ。『もしもYHVHが蘇ったとしても、必ず我らで雪辱を果たそう』と。
会社の本社をここに設置し、そして途方も無い田舎に近かったこの土地を開発した。我らの都合の良い様にな。これが私の目論見の最果てだ」
「その一つが、俺が通ってきた地下の空洞っつー訳か。……読めてきたぜ」
然り。既にこの時、桐彦は到達していた。セラフィモンと針斗がその存在に漸く気付いた、糸引く蜘蛛の正体に。
ならば何故、彼は天使長と怠惰の会話に接し、一切を知らぬふりをしていたのか。
それが桐彦の二つ目の誤りーー否、当人からすれば寧ろ、誤っているのは怠惰の代行とその花嫁だ。……無論、無価値の語る真実が真に真実なればではあるが。
「ああ、その通り。この地を開発するに際し、龍脈の概念を持ち込んだ。デジタル・モンスターがある程度以上に増えれば、この戦いが起きるのは自明の理であろう?
私はそれを見越し、この地、『B.E.E.L』の本社を中心に、この街の地下全てにあの大空洞を張り巡らせた。そこに我が言霊で龍脈と言う型を与え、死んだデジタル・モンスターの魂が、私の元に集うようにした。それもこれも、来たるべきーー来るかどうかもわからぬ神聖四文字[テトラグラマトン]との戦いのためだ」
ベリアルヴァンデモンが見据える先は、再びのハルマゲドン、ということだろう。その為、自分の元に莫大な神魔の魂を集め、己を強化しようというのだろう。
そして今、彼が座席から立ち上がらず話をしているのも、その暴れる魂を押さえつけるのに力を割いているからなのだと言う。
その所為か、彼もベリアルもまた変質している。蓄えた力の為、突き付けられた銃口を命の危機とも思っていないのかもしれないが……少なくとも"ベリアル"は、如何な状況でも自分に攻撃の矛先が向かうことを良しとはしなかった筈だ。
「いやお前、ンな状況でもそんなウゼぇ声色出してンなよ……」
「性分なのでね。神代の頃からの癖だ。抜けるはずもなかろう。どうか、今暫く付き合ってくれ給え。
さて、風水や地脈というものに触れたことはあるかね?自然とこの時代では廃れてしまい、古い文献に散見される程度に過ぎなくなってしまったが……。例えば四神相応。北に丘陵、西に大道。東に流水、南に湖沼。尤も古来よりこの相応が不変というものでも無いが、この国で最も長い間親しまれていたのはこの組み合わせであろう。そういう配置をすることで、都に"気"を集中させ、繁栄を齎す。そう言った現世利益のための神秘だ」
滔々と薄い唇から放たれる言葉の奔流はまるで立て板に水。そうでありながら流れる水は清水ではなく汚泥であろう。聴く者の脳髄を蝕み、己が傀儡とする魔性の言霊。
桐彦はそれを無意識的に感じていたか否か。或いは既にその程度の隠秘学は知っていたからかーーそれは高原彩利と共に真原針斗を引っ張り回していたときに身につけた知識で、それを身につけた時の自分の感情を思い出したからーー知らず渋面を浮かべていた。
「おや、退屈そうな顔をしているな。すまないね。私は以前も言った通り話したがりな質なのだよ。許してくれたまえ。
いやはや、しかし流石は流石。伊達にあの才媛と遊戯を育んではいないようだ」
「アン?今なんつったコラ。アイツはともかく、ンで先輩の事が出てくる」
渡部桐彦。彼はベルゼブブを意志一つで捻じ伏せる精神性を有してはいるが、その根幹を揺らがされては形無しだ。高原彩利に関する事。親友とその彼女ーー渡部桐彦が己が命よりも大切と考える二人が、ベリアルヴァンデモンに目をつけられていると言う事実。
それが、彼の冷静さを失わせる。柳のごとき精神性を崩させる。自分もまた、ベリアルヴァンデモンの造る絡繰の歯車であるという事すら無視してしまう程に。
「ふ……くはは、はははははははははははは!知りたいか!知りたいかね!良かろう押教えてやろうではないか!」
哄笑。哄笑。哄笑。目論見が次の段階に進み、ベリアルヴァンデモンは狂喜する。
「彼らこそ、我が計画の主柱だからだ。以前教えてやったろう?千年に一度のベルフェゴールの暴れ具合を。神聖四文字を除いた神魔最優は我が盟友サイファー殿だが、神魔最強は紛れもなくベルフェゴールだ。
流石に私も、アレの魂を御し切れるとは思わぬし、そもそもこの大戦に表だってアレが出てきては、我が盟友が全力で相手をしても敵うかどうか、といったところであろう」
そこで、一計を案じたのだと。
「だから、アイツが代行に選ばれてるって訳かよ。勝手に他人の事、手前の計画に巻き込んでんじゃねえぞ!」
親友を介して怠惰を倒せる様にか。或いは親友をそのまま御す自信があるのか。いずれにせよ、この男は自分達を利用しようとしている。そう判断した桐彦は激して、襤褸衣の様な衣装の胸倉を掴み上げる。
長い黒髪がだらんと垂れても、ベリアルヴァンデモンはその嫌味な冷貌を崩さない。
「そうだ。もっと怒るがよかろう。君にはその権利があるのだよ」
そして、天井を向かせられたまま、その頬が亀裂を孕んだ。愉快で愉快でたまらぬという、怖気を感じさせる笑みだ。
「だが、きみが怒りを向けるべきは私ではない。怠惰の代行たる少年。彼なのだよ」
「なんだと……?」
そしてこれが。三つ目の過ち。ここで続きを聴かずベリアルヴァンデモンと戦っておけば、勝敗に拘らず、彼の精神はまだ平穏に凪いでいられただろう。その奥の激情を隠したまま。
「何せ、君も懸想している怠惰の花嫁!
本来ならば、君を恋人に選んでいただろう彼女!
彼女の気持ちが捻じ曲がっているのは、彼の少年の所為なのだからなあ!」
虚言の悪魔に真実を聞かされ、渡部桐彦は最早黙ってはいられない。