ChapterⅨ -The Nequitiaeque②- - ぱらみねのねどこ

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ChapterⅨ -The Nequitiaeque②-

 そこは広大な宇宙空間だった。あらゆる世界法則が入り乱れていた。
 足場は虹色に煌めくブロックの集合体。足元の光源は星々の光をかき消すに十分なはずなのに、夜空には遠大な惑星が点在し、その存在を明々と主張している。
 遮蔽物など一つもなく、そして空には即死する冷風が、地には沸騰する高熱が屯している。しかし液体の凝固点は上昇し、人体のホメオスタシスをあざ笑うかのように血管が壊死を起こす。
 空を駆けるべき鳥もなく、地を這うべき虫もない。生命の源たる水など一滴も見当たらない。
 一歩踏み出せば体中の時が停まり、二歩歩めば暴風に弾き飛ばされる。三歩目には重力が倍加し、それどころか重量そのものがそれらに対して加速化する。
「ぐぅッ――クソ! こんなところで、止まっていられるか!」
 強引に重力の鎖を引き千切り、その代償に四肢から血が噴き出る。
 ここに立つものはそこの法則に適応しなければ、無機物有機物を問わず死滅する。
 なぜなら此処は新世界。六柱の魔王と六柱の天使を混ぜ合わせた上で、未だ混ざり切っていないからこそ混線する。
 俺はベルフェゴールの肉体の強靭さを持っている。怠惰の魔王の肉体を以てして、それが悲鳴を上げるなど信じられるだろうか。
 そして四歩目を踏み出した途端、"耐えがたい飢餓に襲わ"れる。
 ある種慣れ親しんだ感覚で、新宇宙にはまだ存在しない概念だろう。
「チッ、くたばってなかったかよ」
「ったりめえだ。まんまと先輩奪われてるお前に任せておけるかよ」
 目の前に忽然と現れるベルゼブモン。彼はこの新世界で、またしても真っ先に自らの存在を構成したのか。
「――ま、つっても、そりゃ俺もか。お前なんぞとマジになってやりあってる間、コイツの動向に気付けやしなかった。ったく、マジでファックってなもんだぜ」
 そう言って、この新世界初めての住人は大地を踏み砕く。砕いたところからは蠅が飛び出し、彼は鬱陶しそうに追い払った。その風貌に、先ほどまでの気負いは一切ない。
「まあおかげで頭もスッキリした。殴り合えばそりゃ多少マシにならァな。
 つーわけで? この領域は俺が支配した。ま、所詮"暴食[Gluttony]"なんぞ大したことない罪科だ。さっさといけよ、あと六層だ」
 ヒラヒラと手を振り、俺を先に促す。気付けば飢餓感以外、何一つ苦を感じない。きっとここにまっとうな生物がいれば、潤わぬ喉、満たされぬ腹を抱えた蟲毒の壺が自然発生するだろう。
「着いて来ちゃくれないのか」
 一種、一縷の望みをかけて尋ねてみるが一笑に付された。
「必要かよ」
「いいや、要らんね」
 オグドアスが一、人間を意味する第七オグドアス、アントローポス[Ho Anthroopos]は地に堕ちた。他ならぬ旧世界の人間の意志によって。そして俺は――。
「じゃあな。あの人とよろしくやってくれ」
「お前こそ、嫉妬で化けて出るんじゃねえぞ」
 ――もう二度と会わぬ喧嘩別れの親友と、ハイタッチで別れた。

〇〇〇〇〇

 そこは一言で言えば教会だった。第八オグドアス、エククレーシアー[Hee Ekkleesiaa]。既に現世でそれらしい装飾は見慣れたものだが、ここはどこもが異質だった。
 例えば白亜の柱。それは通常の建材より余程脆弱だ。何故ならそれは砂粒と化した人骨だから。
 例えばステンドグラス。それは通常のそれより透過性が低い。何故ならそれは人体の爪や眼球。
 屍で作られた荘厳な教会。恐ろしいほどに人体の構成を熟知し、おぞましいほど人間の精神を圧し折る芸術品だ。取り込んだ旧世界を分解し、再構築する神の御業と呼ぶべきだろう。
 この領域の出口はわかっている。死者の怨念とでも呼ぶべきものが、俺の全身に絡みついている。引き摺り引き留めようとする方向の逆の方向に進めばいい。
 そして、この怨嗟の原因はわかっている。
 あの日、"俺が怠惰の力を借り受けた日に、見殺しにした人間たちだ"。
 建材となった人間の魂は生きている。
 どうしてお前が生きている。新世界の礎になどなりたくない。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね――。
「出て来いよ、リリスモン。じゃないともう一回殺すぞ」
 虚空に向かって語り掛けて数瞬後、怨念の中から懐かしい姿が現れる。ほんの数日前なのに、その姿はあまりにも久しぶりに見た気がする。
「あら、怖い怖い」
 亡者の怨念は即座に行動を停める。それは魅了か、あの日のトラウマか。リリスモンは俺の背中に豊満な肢体を絡みつけながら、蠱惑的な声をかけてくる。
「既にボロボロではないか。此処を抜けようがあと五層、耐え切れぬのではないか? その燃えるような色欲、我の心情としては亡者どもを使い食らってしまうのが一番なのだが――」
「邪魔だ。どけ」
「これは手酷い。ならば力づくで――」
「大体な、そんな罪科はとっくに超越してるんだよ」
 そう、俺の先輩への想いは"コイツが出現する前となんら変わっていない――"。
 即ち、色欲[Lust]の宿業は既に踏破している。
「な――ッ、馬、鹿な――」
 俺が歩みを進めると、新世界の法として確立した色欲が弾かれる。同時に俺の全身の体液が沸騰する。
 驚愕するリリスモンを視界に収めながら、教会地下への入り口から次の領域へと歩みを進めた。
 勿論、先輩を抱きたいという欲求なんて当然ある。嫌われることも無視して、もう誰にも奪われることも、決して心が揺れ動くこともないように俺色に染め上げてしまいたいという気持ちがある。
 だが、そんなものは今は邪魔なだけだ。心の棚にあげたままポイーだ。
「割り切りもできなきゃ人間じゃねえんだよ。だからお前達は滅びたんだ」
 だが、その程度誰にだってある欲求だ。人間が濯ぐべき原罪なのかもしれないが、そんなものに逐一拘泥していては、正直やってられない。

〇〇〇〇〇

 そこは平和な街だった。笑い合う民がいて、隣人の死を悼み、文化があった。平和な社会生活を営んでいて、俺の身体も異常法則に蝕まれることはない。おかげで傷を癒しながら次の層への出口を探すことができた……もっとも、それは芳しくなかったが。
 この街の平和は、少しのことで崩壊するのだ。
 例えば、隣の家の畑の作物が多かった。例えば、弟の飼う牛の乳の出が良かった。 例えば、娘の方が自分より美しく育った。
 それだけで彼らは殺し合いを始める。自分以外の存在を許容しない排他戦争だ。家族を殺し終えれば隣人を。隣人を殺し終えれば他人を。他人を殺し終えてようやく争いは終わる。
 残った一人は飽くなき欲望を抱え、嫉妬する対象を失い、果てに発狂して自死に至る。
 そして翌日には何も変わらない。
 全く同じ顔、全く同じ生活、全く同じ動機で争いが始まる。戦争の過程は異なるが、最終勝者はいつも同じ。
 俺が争いに巻き込まれることはない。この光景を見せつけたい者――つまり。
「餌自慢か。趣味が悪いぜクソワニ」
「ご名答~♡ 満点あげちゃうわん」
 再び最後に残った人間――リヴァイアモンの意志だ。
「俺は急ぐんだよ。さっさとどいてくれないか」
 瞬時にピンクの巨躯に氷の火柱を突き立てる。
「AGyaGyaGyaGyaGya! ちょ、酷い、酷いわよボーヤ! 折角傷が癒えるまで置いといてあげたし、その間暇だろうと見世物も用意してあげたのに」
「うっせえ馬鹿。余計な世話だっつか、お前が俺にそんなことする理由はねえだろ」
「なァによ、つれないわね。ゴハンに満足したアタシは、同胞とは仲良くするわよん?」
 ぐばらぐばらと喉奥を鳴らして笑う。嫉妬の獣はこの新世界を逆に喰らい、満たされている。その生命力に満ち溢れた姿は、ゾーエー[Hee Zooee]の支配者に相応しい。
「言ってろ。お前らごと消滅させてやるから、最後の晩餐でも楽しんでろよ」
 最早懐かしい旧世界の理を背にして、俺は次の領域へと旅立った。

〇〇〇〇〇

 そこは天高く聳える塔が全てを支配していた。無貌の人々が石を担ぎ、台車を引き、既に天塔とでも呼ぶべきその塔を更に更に高く積み上げていく。
 バベルの塔。ここはオグドアスが一、ロゴス[Ho Logos]。統一言語――始原の言葉[Logos]による人類の繁栄と霊性獲得の礼賛である。
 やがて頂点へと至った人類は"個"を獲得し、肉を捨てアイオーンへ至る。
 この領域では、旧世界の魂が新世界のそれへと変換されているのだろう。
「人が神座へ至るなど、傲慢が過ぎるというものだ。ゆえに怠惰よ。貴様もここで滅してくれよう」
 そして天塔は、更なる天より落とされた雷によって滅び去った。遅れてやってくる三体の天使。俺と面識のあるセラフィモン、スラッシュエンジェモン、クラヴィスエンジェモンだ。
「ううむ、随分と腕を上げたようだ。何、我々に気兼ねすることなく進むと良い。天使長が君に刃を向けようとも、いやさ善きものを見せてくれた礼だ。そこの馬鹿者と共に、身命を賭して食い止めて見せようとも」
「やあ少年よ、久しいな! ハハハ、私はひっそり幕を閉じてしまったが、君は壮健なようでなによりだ!」
 蒼銀の鎧兜は切っ先を上司へと向ける。まったく頼もしい。
「お前たち、下級天使の分際で私に逆らうか、堕天は免れぬものと知るがよい!」
「生憎と、最早我々は新世界の住人だ。主の意をこの世界に再構築するよりかは、この世界そのものを打ち砕いたほうがよかろうよ」
「フッ、ついぞその傲慢は治らなかったようだな! これより我らは滅ぶ。その少年が我らごと大悪――ベリアルを滅ぼす。だが恐れるな、衆生の救済を望むなら、我らは望んで礎となるべきなのだ」
 統一言語は神の怒りで砕け散り、それを為したセラフィモンはこの領域の主となっている。かつての傲慢そのままに。それはつまり、デーミウルゴスの役割を彼が背負わされているということ。この世界において先に進むためには、
この傲慢を超克しなければならない。
 だが心配はないだろう。刃を交えた理性的な天使がいる。心を交わした……交わしたか? まあいい、頼れる天使がいる。彼らが必ずや、この傲慢を超越してくれる。
「頼んだぜ、これは餞別だ――ランプランツス」
「往けよ少年! 我らは所詮、君たちの世に必要ないということだ!」
「尻拭いをさせる形になるが、君に負けて善かったよ。我らの愛しき旧世界を護ってくれ」
 バベルに負けない勢いで氷の火柱を噴出させ、仲間への餞とする。
 そうして俺は、第五アイオーンを踏破した。

〇〇〇〇〇

 そこは動く屍の世界だった。ヒトの形をとることもできぬ泥人形たち。あるいはヒトの形をとっていたであろう肉塊たち。亡者どもは延々と、目につく相手を殺し続ける。死すればまた、新たな亡者が産まれ出づる。
 ただ在るだけで精神汚染が為されている。ここにいるものは生まれたその瞬間から一つの感情しか持たない。
 そう、"ここは怒りに支配されている"――。
 だから、居るのだろう。異形に堕とされた上級天使が。己が境遇を受け入れられず嫉妬にさえ狂い、そして此度の敗北にすら怒り狂った度し難いあのケルビモンが。
「こうして新世界を我が怒りで塗り潰し、また形を成すことができた――異形には違いないがな。業腹だが、貴様の功績だと言ってやらんでもない」
 虚空から現れたケルビモンに、以前の闇色の体毛は一切残っていなかった。美しい毛並みは純白に染まっており、深く、嫌悪感を抱かせる口元の亀裂は柔和な笑みに代わっている。
 デジタル・モンスターとしての生を受け入れたか、あるいは己が異形出ることを些細であると割り切ったか。
「素直じゃない奴だな……それで? 他に二柱居るだろう、そいつらは?」
 直接の面識はないが、先の領域で見なかった位階の二柱――座天使と主天使が足りていない。向かってくるとあらば蹴散らすだけだが、姿が見当たらぬというのは不可解だ。
「アレらはまだしばらく顕現できんよ。何せ、貴様との縁がある者が、踏み入ってきた貴様を呼び水に復活しているに過ぎん。オファニモンもドミニモンも、一切貴様らと拘わらず落ちたからな」
「そうか、で、やるか?」
「……」
 純白の獣は、次の領域への出口を塞ぐかのように位置取っていた。
 無言で向けられた雷の槍は、戦意を煮え滾らせていた。
「無論だ。私が落ちたとて新宇宙に再び溶けるだけだが、先日のリベンジマッチにつき合ってもらおうか」
「マジかよ。つまり時間の無駄じゃねえか……」
「そうでもない。ここを超えたければ力を示せ……ということだ。世界の真理だ」
 成程。第四アイオーンの番人というわけか。アレーテイア[Hee Aleetheia]の突破には力が必要で、力の源の最たるものは憤怒……これ以上ない配役だ。
「OK、OKだ。お前じゃ力不足だがいいだろう、試せるものなら試してみろよ、旧世界最強のデジタル・モンスターの力を!」

〇〇〇〇〇

 そこは黄金の宮殿だった。煌めく内装、いっそ悪趣味なほどキンキラキンの住処。最早誰が支配したのか明らかだ。
 領域の最外層で、幾度となく地震のごとき衝撃が鳴り響く。アレもまた、己が業に従って他領域に侵攻しようとでもしているのか。
「お前かよ、アモン」
「然り、ご明察ですな……!」
「いやどう考えてもお前の趣味だし」
 虚空に呼びかければ、足元に跪いてバルバモンが登場する。
「最早敵対する理由はありません。このバルバトス及びアモン、非礼を詫びるとともに、これより貴方様の力となりましょうぞ!」
 なんだこいつ、気持ち悪ぃ。
「お、おう……」
「ここへ赴かれた理由は理解しております。ワタクシも姫君奪還の為上層への進行を試みておりましたが……業腹ながら、この領域を平定するので精一杯」
 全然予想と違う理由で割とマジでビビる俺。捲し立てるバルバモンは指輪をガチャガチャ鳴らしながらしわがれた指を指し示す。
「うーん……元気になってよかったな!」
「それはもう!」
 マジで誰だコレ。漂白されてやがる。
「お前大丈夫? 強欲成分残ってる?」
「勿論ですとも! この宮殿をご覧ください、世界広しといえども、こうまで黄金を巧く使える者はワタクシ以外におりませんとも! さてはベルフェゴール、貴方も黄金の良さが知りたいと? いいでしょう! いくらでもお教えして差し上げましょ――」
 あ、これ完全に漂白されてプライマリーな強欲成分しか残ってねえや。
「――分かった。分かったから、じゃあ俺は行くよ」
「左様でございますか! では僭越ながら見送りをさせていただきましょう!」
 黄金宮殿が轟音を立てて変形する。マジか。
 天蓋が開き、上層へのルートに黄金の階段が形成される。そしてレッドカーペットが敷かれた。マジか。
「ではでは、名高きベルフェゴールの道行きに栄光あらんことを! もし新宇宙が誕生したら、是非我が領域においでください! 歓待の用意をしておきますぞ!」
 なんだコイツ、面白すぎる。
 謎に激励を受けながら、俺は宇宙理性の法――アイオーン・ヌース[Ho Nous]を後にした。
 ……理性とか、どこにあったんだ? 多分、宇宙理性とか排他した結果、理性が残らなかったんだろう、うん、そうだな!

〇〇〇〇〇

 さて、茶番は終わりだ。
 エンノイアー[Hee Enoiaa]に踏み入れた途端、再び異常法則の中に叩き込まれた。空間が回転し、方向感覚が概念ごと狂い、四方八方から極太い鎖が飛び出してきて、更にそれらから枝分かれして炎の氷柱が噴出する。
「此処か――ッ!」
 寸でのところで回避を繰り返し一瞬で悟る。これは怠惰の魔王の御業だ。なら、先輩もここにいる。
 先輩の中にいるベルフェゴールの力が、無差別に――そう、このアイオーンを支配することもなく――発現している。惰眠に誘う甘言が、供物を求める渇望が、胸の裡から沸々と湧き上がる。
 だが、既に怠惰の宿業は乗り越えた。俺が俺自身を、かつての真原針斗と同じだと認めた時点で、最早罪科[Acedia]は身を蝕むものではなく濯ぐものでしかない。
 その力だけ、利用させてもらうぞ。
 時の縛鎖なにするものぞ。怠惰の教唆なにするものぞ。異物だとしてこの世界が俺を排斥するならば、俺も世界を塗り替えてやろう。
 アイツら他の魔王どもにもできたことが、この俺にできない筈があるものか。
「――我は乾いたり。我は餓えたり。
 ――肉を求めたり。欲を求めたり」
 嘗て耳にしたベルフェゴールの祝詞を、その代替たる俺自身が唱えよう。
「――凶爪は肉を裂き罪科は我が礎と化す』
 ヘレル・ベン・サハルに匹敵する我が力、とくと見るがいい。
 新宇宙の礎となった木っ端共とは霊格が違う。覚悟が違う。 
 高原彩利が胸の裡にある限り、俺/我は無敵だ。
『おお、畏れよ。おお、嘆けよ。我は汝らを誘惑するもの。汝が信徒は我が手の内に』
 ベルフェゴールと共に唱える呪言が世界を変える。
 先輩をこのクソったれの世界から救出する上で、奴と俺は同じ方向を向いている。
 呪いが水のように腑へ、油のように骨髄へ。世界の骨子に染み込む呪詛だ。同心円状に広がるベルフェゴールの領域。
『来たれバアル・ペオル[Baal peor]。二万四千の魂を以てYOD HE VAU HEに挑みし者――我は偉大なるモアブの神!』
 強引にエンノイアーを支配する。光景は一転。遥かな銀河は曇天の暗い街と化した。
 山羊の頭部を模した装飾の十字架。乱立するその数は二万四千と一。磔にされているほぼ全てが白骨化しているが、残る一つは決まっている。
「迎えに来ましたよ、先輩」
「……何故、来た……」
 初めに見た時と同じように、先輩は鎖で十字架に雁字搦めにされていた――いや、帰還を拒むため、自らそうなっていた。
「当たり前でしょう。俺は先輩の為ならなんだって差し上げます。手でも胸でも、命でもね」
「わ、私に、そんな、資格は――」
「――資格なんて必要ない。俺は貴女を愛しています」
 震える声で語る先輩の感情の動揺に合わせ、十字架の周囲から杭が飛び出す。寸分違わず俺の心臓目掛けて突き進むそれを微動だにせず受け止めた。
「――駄目だ。お前もっ、聞いただろう。私の身体には、ベルフェゴールの血が流れていて、お前はそのせいで、私を護らざるを得なくて――」
「俺が先輩を護っているのは、紛れもなく俺の意志ですよ」
「それだけじゃない。私の後輩への気持ちだって、ホンモノじゃなくて……お前がベルフェゴールに似ているから、父性に慕情を抱いているだけだって――」
「ああ、確かに言われましたね。俺の宿業は怠惰だって。俺たちはベルフェゴールに利用されているだけだって」
「そうだ。だから、お前は、もう私に拘わるべきじゃない……。
 お前の真の想いが歪められているなんて、絶対に、あっちゃいけないんだ!」
 瞳の端から流れた涙を見て苦笑を堪えきれない。
 この女性は優しい。そしてあまりにも誠実だ。真贋定かならぬ感情で俺と向き合うことを善しとしていない。
「私はこのまま、ここで朽ち果てる……それがお互いの為なんだ」
 俺は大きく溜息を吐いて先輩に問いかける。
「うーん、で。主張は分かりましたが。
 先輩は俺のこと、好きじゃないんですか? 離れたいんですか?」
 先輩は顔を赤くして、「むぐっ」と言った。……おい聞いたか。むぐっだぞ。痛いところ突かれて赤面しながらむぐっだぞ。最高か。可愛すぎる。天……使はクソばっかだから、女神にしよう、女神か。逃がすわけないじゃん、なあ? そっちが女神なら、俺は魔王だぞ。
「俺は言いましたよ。愛してるって。離れたくないです。ずっと一緒にいて欲しい。また怠惰に堕ちてもいいから、先輩とずっと抱き合ったまま惰眠を貪るのもいい。答えが聞きたいですね。それを思い出にするつもりはサラサラないですが」
「そんなもの……そんなもの」
 怒気が空間を揺らす。先ほどまでは何ともなかった杭の威力も増し、さすがに命の危険を感じて氷の火柱で粉砕しておく。ベルフェゴールの全力の空間支配を一部でも奪い取る辺り、凄まじいレベルだ。
「大好きに決まってるだろう! この世の何よりお前が好きだよ! 叶うならお前と一緒にいたいよ! でも、でも! 駄目だろう! もしも私が本当はお前のことを好きじゃなかったら、もしもお前が本当は私を何とも思っていなかったら……!」
 先輩を拘束する鎖がガチャガチャを音と立てる。身を捩り、精一杯の声を振り絞る彼女のエメラルドの瞳から涙が零れる。抱きたい。今すぐ頭撫でたい。
 じゃなかった。
「俺もですね、自分の感情が嘘だと思ったら気が気じゃないですよ。まあ本当の気持ちだと思ってますけど。先輩かわいい。先輩最高。ビバ先輩。幸い手が一杯になるほどの敵も消えたし、もう絶対離してあげません。
 とまあ俺の自負心はさておいて、いいじゃないですか。別にそんなこと」
「は……?」
 とんでもない――うん、まあ。一般的善人の完成を持っていれば、確かに突拍子もない発言だが。
「桐彦と殴り合ってわかりましたよ。アイツはとても……とても刹那的だったけど、だから人間として強度が高かった」
 要するに、棚上げがうまいのだ。生きるのに向いているとも言える。
 まあ実直、誠実を旨とするような生き方ではないが。ベリアルに唆されるまで自分の恋心を控え、そのまま親友面するなんて真っ当な面の皮でできることでもない。
 未練たらしく、しかし表には出さず。正に自分の悪徳を御せていた。
「考えたんです。先輩への恋心が欺瞞だったとして、それで何か現状が変わるのかって。今、紛れもなく俺は貴女を愛しています。で、その感情に従って貴方と一緒にいたい」
 人間は幸福追求する生き物だ。視点が一段も二段も上がって断言できる。そもそもこいつの『ベルフェゴールの探求』とかいう「幸せな結婚などありえない」という伝承。今なら記憶として閲覧できるが、嘘っぱちだったしな。
 まあ実際幸せな生活とかいうものを経験していなければ、先輩を護るために俺を引っ張り出したりはしないか。ベルフェゴール自身、ベリアルの勧めだったことも忘れ、その時を大切にしていたようだし――。
「今この時を大切に。無理に自分の感情に逆らっても、苦しいだけですよ」
 今が楽しければそれでいい――とまで言わないが。
「ぶっちゃけますけど、まあ自分に流れる血とか、自分が背負った悪徳とか、そんなもの駆逐できませんって。何なら先輩の血なら飲んだっていいですけど」
 そんな自分でもどうしようもないものはさっさと受け入れて、「それはそれ、これはこれ」として生きていこう――。
 俺が得た結論は、そういうもので。
「――はぁぁあ、お前ときたら」
 驚きで涙も引っ込んだか、先輩は呆れ果てたような溜息を吐く。
 ……どうやら、意地を張るのは諦めてくれたようだ。
 先輩を縛る鎖の拘束が緩んでいく。綺麗に着地した彼女は俺に近寄ってきて手を伸ばし――。
「だが、それならやはり駄目だ。私のことは置いていけ」
 ――胸板を精一杯突き飛ばした。
 ん? んんんんんんんんんんん?
 おいおい待てよ。俺の一世一代の説得ロール失敗かよ。
 そして、悪いことは積み重なるものだ。
『――そうとも、ベルフェゴールの孫娘を渡しはしない』
 天より多重に降り注ぐ声に合わせ、突如顕現した闇より顕れた触腕が先輩の脚を掴んだ。振り回され逆さ吊りにされながら、彼女はそれを受け入れたかのように虚ろな眼で虚空を見つめながら、ぽっかりと開いた次元の狭間へと引き摺り込まれた。
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