ChapterⅢ -The Greed and Envy①-
「あらあらあらあらぁん。アタシ好みの良~い嫉妬ねぇん」
野太い男の声で空気が震えると同時に、声の主たる巨体が大地を震わせる。巨体の着地によって、周囲に立ち並ぶビルが潰れている。どうやら多くの人が未だ中で働いていたようで、それだけでかなりの命が散らされたの・・が理解できてしまった。
咄嗟に先輩を抱いて地震や瓦礫、そして正体不明の巨体から彼女を守ったが、その行動はバルバモンを更に苛付かせた様だ。苛立ちのままに杖を地面に突いて地面を陥没させるバルバモンに、全長数十メートルに及ぶであろう闖入者は楽しげに声をかけた。
「んもう、強欲がそんなに嫉妬してんじゃないわよ!アタシのお株奪わないでくれるかしら」
「何を言うのですか新たなる同胞リヴァイアサンよ!このわたくしが?嫉妬ですって?否!わたくしは正当な愛を謳い上げているだけなのです!これは……そう!当然にして世界の真理!見れば分かるでしょう!ベルフェゴールのその美しい容姿!麗しき美貌は正に彼女がわたくしと結ばれるためにその姿を取って再誕した証に他ならぬ!」
「そんな何千何万年もの時を超えた大恋愛だったらリリスじゃなくてアンタが色欲になってるわよ」
「ふふふふ、貴女もどうやら現状への理解が足りない様だ……ところで、どちらに着くおつもりですかな?わたくしはベルフェゴールの傍に在る為、あの少年を殺すつもりですが……」
俺を殺すつもりだと、バルバモンはそう言った。そうである以上、コイツからは先輩の防衛を気にしなくていい。俺さえ死なずにいられれば、ここまで錯乱したデジタル・モンスターならば俺だけを先に狙うだろう。
だから、注意すべきはこの巨体――バルバモンに曰く、リヴァイアサン。恐らくデジタル・モンスターとしての名はリヴァイアモンか――だ。こいつの出方はどう来るのか。巨大な顎から漏れ聞こえるようなその声を聞き逃すまいと耳を澄ませる。
「やあねえ。アンタはアタシ好みの嫉妬を撒き散らしてるって言ったでしょう?もうアタシのセンサーにビンビン来てるのよ?今のアンタに敵対して、メリットなんてないわ。
そこのプリティーなボーヤ、何やら怠惰の力を使えるっぽいけど――表に出てくるなんて、怠惰らしくもないけどね――アタシ達魔王二柱を相手にして、それだけで何とかなると思わないことね」
コイツも先輩を殺すつもりはないと言う。それなら話は簡単だ。単に、俺がコイツ等二体を倒せばいいだけ。最早確認は終わりだ。
「先輩、離れて――」
「ああ。邪魔はせん。守ってくれ」
「勿論です」
相対する二体のデジタル・モンスターは先輩が離れるのを律義に待っている。「魔王」などど名乗る以上、コイツ等が過去の復権を求めているという話も加味すれば「変身中に攻撃」みたいなことはしたくないのだろう。そんなみみっちい魔王など居まいし、スラッシュエンジェモンの際も、騎士道精神などだったのかもしれない。
まずは二対一と言う数の不利を覆すため、推定リヴァイアモン――嫉妬に狙いを定めて跳躍、その長い鼻っ面に右腕を全力で上から振り下ろした。
「あらあらあら、アタシなの?嬉しいわあ――!」
その反動で俺は方向を90度変え、更に飛び上がって離脱する。俯瞰して漸く分かったことだが、リヴァイアモンは鰐のような姿をしていて、その動きは巨体から想像できる通り鈍重だ。しかし耐久力も凄まじいのか、コンクリートを罅割れさせる程の力で地面に叩きつけられたにもかかわらずその声色は楽しそうだ。
「うるせえ、黙れよクソ鰐」
「んもう、口が悪いのねボーヤ」
だが耐久力など関係ない。今の俺は、スラッシュエンジェモンを殺した時のあの感覚を覚えている。あの技ならば、防御云々関係無しに殺し切れるだろう……いや、そうである筈だ。
離脱の勢いそのままに体勢を整え、背後から鎖を射出。十分射程圏内だと把握していたそれを、リヴァイアモンの口を閉じさせるよう絡み付ける。
「ったく、人のデートの邪魔しやがって――失せろ、ランプランツス」
リヴァイアモンの頭部目がけて氷の火柱を撃ち下ろす。鎖を伝って急接近するそれは周囲の空気中の水分さえ凍らせて進んでいく。そのまま目標を砕け散らすと思っていた氷の火柱は、大鰐の顔面に接する直前で消滅した。
「ロ・ス・ト・ル・ム――――――――!」
鎖の拘束を引き千切り大きく開かれたその魔顎に、氷の火柱は完全に飲み込まれてしまった。
「わたくしは眼中にありませんかなあ!?死よ唸れ――デス・ルアー!」
「な――クソッ!」
驚愕する俺を狙い杖から放たれた黒い光線。一瞬右腕で弾こうかと思ったが、再び鎖を撃ち出し倒れかけの電柱に絡めて方向転換、鎖を引き戻して二体の敵から離れた方向へと飛び移って回避した。ほぼ第六感的な危険信号だったが、その光線に触れてはいけないと感ぜられたのだ。
「おやおや、まさか翼も出さずに空中戦を演じるとは……成程そうした狡い曲芸で、私のベルフェゴールを誑かしたのですね……許し難い暴挙!」
「黙れよ。間男風情が俺達に割って入ろうとするなんざ片腹痛いぜ」
「間男……!言う事に欠いて……このわたくしが!間男ですと……!
―――思いあがるなよこの匹夫めガアアァァァアアアア―――――!!」
アレに触れれば如何なる部位で防御しようと、死ぬ。そう思った。
しかしそんな一閃を造作もなく放ったバルバモンも、空中で回避と言う人間離れした技を披露できてしまった俺もそんなことは意に介していない。俺とコイツの間にある溝は深く、先輩――曰く怠惰、ベルフェゴールとか言うデジタル・モンスターを意味するのだろうが知ったことじゃない――の隣に在るのは自分の方が相応しい、と。互いにその事しか考えていない。
「完全で無いベルフェゴール如き、恐るるに足りぬ!喰らってしまいなさい!リヴァイアモン――!」
髑髏の死杖が地面を叩く。不安定だった足場が、俺を中心点にして同心円状に黒く染まっていく。左方から迫る巨顎を回避するため足に力を籠め、黒く染まった大地を飛び出そうとしてつんのめった。まるで蟻地獄の様に、足が固定されて動かない。
「ロ・ス・ト・ル・―――?」
「クソ――!だったら!」
止む無く鎖を射出、踏ん張りながら既に折れている電柱を引き寄せ、つっかえ棒の様にリヴァイアモンの口内に放り込む。自分の腕の代わりに働くこの鎖の利便性を再確認すらした。
「あが……グ……!」
「よく粘りますが――デス・ルアー!」
うまい事魔獣の餌食にはならずに済んだが、しかし今度はバルバモンがノーマークだ。氷の火柱を放つ暇もなく、再び死の光線が俺の足元目がけて放たれる。この蟻地獄から抜け出せない以上、回避不能な一撃。
老獪なバルバモンによる不可避絶死な一撃。足を引き千切ってでも脱出するかと考えた、その時。
「おうおうおうおう、寄って集って俺の親友虐めてんじゃねえぞオラ!」
豪快なバイクの音を響かせて、昨日別れて以来だった悪友が割って入ってきた。
「おま、桐彦何やって――!?」
「ぬぁんです!?」
俺の腕にも鎖にも、巨大な鰐にも明らかに人でない爺にも物おじせず突進してきた桐彦は、そのままウィリー走行でバルバモンを轢き倒した。光線は杖から直線的にしか放てないらしくあらぬ方向へ飛んで行き、バルバモンの集中が削がれたからか足元の蟻地獄も解除される。
「あ?何って見りゃ分かんだろ。お前のピンチに颯爽と駆けつけてやったんだよ。親友の俺様がな」
十数メートル程バルバモンを引き摺ってUターンしながら、あっけらかんと桐彦は言う。
俺も、先輩も、二体のデジタル・モンスターでさえも。何も言えない。唯の人間がこの怪獣大決戦とでも呼ぶべき状況に介入してきた事に理解が及んでいない。
よく見れば、昨日二ケツしたバイクとは凶器の出で立ちが異なっているが、しかしそれ以外は至って普通だ。強いて言えば、趣味でも変わったか?と言うような髑髏模様のライダースーツぐらいか。それだって、普通の人間が着るものだろう。
「それにしても、なにコイツら。ああまあお前もだけどさ、すげえ面白そうな事になってんじゃんよ」
「馬ッ鹿お前、すっこんでろよ!」
俺達の戦いは、二日前まで俺より強かった先輩でさえ介入する余地がない。そこに桐彦まで入れられる余裕はある訳もない。
「ああ、そ。説明する素振りも無しね。しかもその眼、お前じゃ足手纏いだから引っ込んでろ、って感じだな?」
「当たり前だろ。どこから見てたのか知らねえけど、この状況を見てお前、自分に何かできるとでも思えるのかよ」
「でもお前、今実際助かったろ?」
「――それは礼を言う。けど、危険だから帰ってくれ」
その上守り切れるつもりすらない。今でさえ、正直桐彦の援護が無かったら足を犠牲にバルバモンを討つしか無かった所だ。先輩の為ならば足の一本や二本最終的には犠牲にする覚悟があるが、その中で桐彦の存在は絶対に重りになる。親友扱いして助けに来てくれたのは嬉しいが、今の俺の価値観に天秤は存在せず先輩一色だ。薄情な話だが、安否不明のままで居てくれた方が――勿論心配はするだろうが――良かったとさえ思える。先輩だけで俺の荷物は一杯で、これ以上何かを抱える余裕はないのだから。
「まあ?結構知ってんだけどな?俺も俺で色々調べてたんだよ。そっちのピンクの方、俺が何とかしてやるからそのキチガイ何とかしろよ、針斗。要は彩利先輩の奪い合いだろ?……お前が適役だよ」
「無理だ。無理に決まってる。それを知ってるなら猶更分かるだろ。アイツ等には常識は通用しない。唯の人間であるお前が逆立ちしたって敵う筈が――」
「――まあ見てなって」
足のホルスターから拳銃を引き抜いて、未だ口を半開きにして静止したままのリヴァイアモンに無造作に数発連射。
「Aaaaaa―――ッ!?」
それだけで、リリスモンの爪を砕き、スラッシュエンジェモンの鎧を陥没させた俺の右腕で痛打を与えられなかったリヴァイアモンにダメージを与えたという事実。
信じられないという表情をしているのは俺だけではなく、この場の支配権は紛れもなく桐彦にあった。
「な?俺も中々捨てたもんじゃねえだろ?」
「……みたいだな。少なくとも、否定は出来なさそうだ」
元々、この男は言い出したら先輩が無理矢理に軌道修正でもしない限りきかない奴だ。だから、背中を任せることにした。
「そいじゃま、アンタは針斗と仲良く喧嘩してな、よ――!」
桐彦はそう言い残し、銃を撃ちながらバイクを走らせリヴァイアモンの魔城染みた巨体に接近していった。
○○○○○
「あらぁん、アンタ、アタシの同類の匂いがするわ――!」
「ヘッ、誰がテメェ等化け物の同類だって――!?」
幾ら桐彦が乗っているバイクが大型で小回りが利かないとはいえ、それは人間の視点で見た場合の話だ。道路は最早見るも無残な瓦礫の山だが、彼の駆るモンスターマシン――ベヒーモス――はその程度物ともしない。操作系も自立サーキットから手動へとノータイムで変更できる上、桐彦を主と認めているこのマシーンは彼を害さぬ様最適なルートを即時に計算して走行する。巨体で動きの思いリヴァイアモンを相手取るのに、これ以上ない組み合わせと言えた。
「力の事じゃないわ、性根の問題よ――?」
「だったら猶更、テメェみたいな人を煽るだけのクソ野郎と一緒にされたか……ねえなァ!」
魔獣の咢を回避し銃弾を撃ち込み、魔獣の尾の薙ぎ払いを瓦礫を利用したジャンプで回避しすれ違い様に銃撃を見舞う。大物狩りの鉄則に忠実過ぎるほどに忠実な桐彦の攻撃は、しかもリヴァイアモンに少なくないダメージを蓄積させているであろう。
「ホントかしら?アンタ――何かを妬んでるでしょう?それも、相当な強さで。そうね……感情の深さで言えばバルバモンのあの女への執着に匹敵するかもしれないわぁん」
深く探るような爬虫類の瞳が、ほぼ死角なく桐彦を射抜いている。常人ならば眼光だけで自分と言う存在を余す所なく穿り返して観察されていると感じるであろうその視線を、渡部桐彦と言う男は全く意に介していない。
「嫉妬ぐらい生きてるなら誰でもすンだろ。んな人間の一側面だけ誇張して語りやがってからに――」
しかし桐彦はそれを一笑に付す。下らぬと。七大罪を司る悪魔――正確にはそれを雛形としたデジタル・モンスターだが――に己が罪を指摘され、即座に切って捨てられる人間が世界にどれ程居るというのか。魔王に善戦し得るスペックもさることながら、その精神性においてこそ、渡部桐彦は異常であると言える。
その人間以上の精神性ゆえに、彼は未だ現世に存在し続けていられるのだから。
「しかしこのままじゃジリ貧だな。小手調べはここまでにしとくか」
言うや、桐彦の身体にゴク僅かな異変が生じる。
最も目立つのは顔面の変化だ。瞳の色は血の赤をに変わり、額に三つ目の瞳の開いた紫色の仮面が装着される。髪の色は金に、腕の先端は鋭利な魔爪を生やし、ベヒーモスの座面から一本の尾が垂れる。
その姿は紛れもなくデジタル・モンスター。「暴食」を司る魔王ベルゼブブを原型とした、ベルゼブモンであった。
「あっははははははははははははははは!アンタ凄い!凄いわ!凄すぎてこのアタシをして妬まず羨まず賞賛しちゃうじゃない!」
「そりゃどーも。嬉しくないぜ」
その姿を見たリヴァイアモンは攻撃の手を止めて豪笑する。何故ならば、目の前にいるデジタル・モンスター――否、目の前にいる男は恐らく歴史上初めて、集合無意識の海の中で神魔と相対し、自我を保ち続けたと言う事だから。
「嘘、嘘!嘘でしょ!暴食――ベルゼブブよりアンタの自我が勝っちゃったの!?信じられない!」
兎と獅子。蠅と人間。小魚と鯨――。ヒトと神魔の間には、そんな比喩よりも深い深い歴然とした力の差がある。それは現世に這い出て来た彼等が振るう物理的な力だけのことでは、当然ない。
現代の世の中。神魔達が再誕を果たしているこの時代において、ヒトと神魔は集合無意識の何処かで出会いを果たす。そこでの干渉は、幾ら神魔幻想であろうとも物理的なものは起こし得ない。結果、デジタル・モンスターに食うか食われるかは、当事者らの意志の強さ、最後まで集合無意識の大海の中に自我が溶けなかったかどうかで決定される――。
これは世界に出て来ている最強の神魔であるルーチェモンですら知り得ない事実であり、彼に現状の仮説を説いた"ベール"なるデジタル・モンスター――現時点で最も神魔幻想の再誕の摂理に詳しいとされる――さえも予想だにしなかった奇跡。
「ああ。どーも族――っつってアンタ分かんのかね?まあ愚連隊みたいなもんだ。所謂不良青少年――の頭やってた俺が、アンタのお仲間ベルゼブブと同一視されたみたいでよ。んで、蠅の魔王サンが何か剣で出来た天使っぽいのと戦ってた機会に乗じて逆に乗っ取ってやったぜ」
ベルゼブモン――桐彦が述べているのは、スラッシュエンジェモンとの交戦の事だ。
先日リリスモンに襲撃を仕掛けた際の「既に蠅王と一戦やり合った後だが」と言う彼の言葉。それこそが、スラッシュエンジェモンと、一度桐彦を乗っ取ったベルゼブモンとの戦いだったのだ。
「ああ、そーいうコト。いやでもすっごいわアンタ、ホントに。無理よ無理無理。アタシですらアイツには昔から勝てないと思ってたんだから。現代で序列とかどうなってるか分かんないけど、アイツは地獄で不動のナンバー2だったのよ?」
しかし、少しばかりベルゼブモンが外傷で弱体化していたとは言え桐彦が為した事象は異様で、恐らく世界初だ。
それ故、リヴァイアモンは手放しに褒めちぎる。信仰を得る為、他者の目がある所では魔王として威厳を持って他者を遇さねばならないという制約こそあるものの、それは彼――彼女の嘘偽らざる本音であった。
「ま、俺の素性っつったらそんなもんだ」
それ程の偉業を成し遂げたと言われても、桐彦には些かの喜びも窺えない。
「じゃあ、やろうか」
「ええ、いいわよ」
飄々とした宣言を皮切りに、再び戦いの火蓋は切って落とされる。
○○○○○
「……少年、恋敵からの忠告です。……もう少し付き合う相手を考えなさい」
何時の間にか間男から恋敵へと昇格されている。やはりコイツは真性のキの字だと再認識させられた。
「俺もそう思わなくはないけど知らねーよ放っとけ。……つか、続けていいのか?」
先輩に仇為す者が相手ならば何であろうと一切の容赦をしないと先日誓った身であったが、流石に今のバルバモンに追撃をかけるのは躊躇われた。ゆっくりと起き上った奴から、外套の汚れを払いながら恋敵認定を受けた所で戦闘の続行を求めた。
「ええ。ですが貴方とタイマンと言うのは、それはそれで一人の女性を奪い合う形としては美しいのかもしれませんが性に合わない」
「俺は結構好みだけど?」
「それ故、制限時間を設けましょう――」
無視か。
バルバモンは成金趣味の指輪を幾つも嵌めたしわがれた指先を先輩に向け、僅かに指を動かした。
「ッ――!?きゃあっ!」
「な――先輩!?」
奴の腕が先輩に向かった時点で俺はバルバモンに向かって駆けだしていたが間に合わない。俺の時の様に、先輩を中心に闇色の蟻地獄が発生する。それだけではなく、そこから無数の青白い腕が伸びており、先輩を闇の中に引きずり込もうと無遠慮且つ乱暴に体中に掴みかかる。
思わずそちらの方を見て制止してしまった俺に、顔の亀裂を広げて見せながらバルバモンは宣言した。
「わたくしの集めた死者の霊魂です……ご案内致しますよベルフェゴール。わたくし達の愛の巣へと」
「このっ……やめろ!放せ……!」
先輩も抵抗しているが、あの蟻地獄にさっき囚われた俺だから分かる。そもそも足が動かせない以上、あんな風に多勢に無勢で抑え付けられては勝ち目は無い。
今このの瞬間にも、彼女は蟻地獄を介して何処か別の場所に送還されているのだろう。足元にある筈の道路に、既に足首まで沈み込んでいる。
先輩が完全に沈み込んでしまうまでがタイムリミットと言うつもりなのだろう。成程確かに趣向は凝らされている。……許せるかどうかは別として、だ。
「雄雄雄雄雄雄ォ―――――!」
「クフフ……ハハハハハハハ!わたくしの祈りが!わたくしの思いがその女性を蘇らせたのだ!肉の一片から血の一滴まで、その女性はわたくしの物だ――!」
激昂しながら放った拳は、破壊力だけで言えばこれまでで最大だったと言える。怒りの感情も火力の上昇に一役買っているのか、直線的故に当然の如く避けられた俺の一撃はビルの残骸に命中し、その大半を吹き飛ばした。
「クソが……逃げ回るな!」
今の一撃で生き残りの人間がいたとしても木っ端微塵だろうし、吹き飛んでいった瓦礫が他のビルに突き刺さってしまっているかもしれない。しかしどうだって構わない。俺が最優先するべきは先輩で、彼女を守ることに俺は全てを捧げているから。
その後も数度、地面から十センチほど浮いて悠々と動くバルバモンn拳をたたき込まんとするも全て避けられてしまう。
「後輩!私の事は気にせずもっと落ち付いて戦――んむぅ!?」
戦いながら一瞬視界に入れて確認したところ、死者の腕は生者の温かさを求めているのか、それともバルバモンの趣味なのか。既に先輩は身体中100本近い腕に絡み付かれ、口も塞がれてしまった様子だ。(ちょっとだけ、本当にちょっとだけこのまま放置してみたい欲に駆られなくもなかったが)確かに俺は先輩の言う通り冷静さを欠いている。先輩を奪われるかもしれないという焦燥が、一刻も早くバルバモンを殺さねばならないと動きから精彩を欠かせている。
「……殺してやるよ、キチ野郎」
地面に脚をつけていては拘束されるのは目に見えている。鎖をまだ無事な遠くのビルや電柱に撃ち込んでアンカー代わりにして飛び回りながら攻撃の機会を窺うが、遠距離攻撃が氷の火柱しかないのが痛い。
対するバルバモンは多芸も多芸で、苦戦を余儀なくされる。決して足を止めることなく動いているため蟻地獄にこそ囚われずに済んでいるが、気付けば飛んで行こうとしていた目標地から無数の腕が生えていて俺を掴もうとしたり、鎖を撃ち込もうとした地点に先回り気味に蟻地獄が発生したりしている。隙を見て鎖をバルバモン自身に物理的な攻撃手段としてぶつけたりしているものの、奴自身空を飛んで空中から光線を放ってきさえする。
「よく粘りますが……しつこい男は嫌われますよ?」
「黙れ、どっからどう見ても、嫌われてるのはお前の方だろ」
会話は成り立つようで成り立たない。バルバモンの言葉は全て独り善がりで、他者の言葉は奴に届かない。
そんな姿を見て、コイツを哀れに思う感情が湧いてきた。追い詰められているのは俺の方なのに、だ。減らず口を叩いている間に、俺の胸の中は憐憫で溢れ返っていた。まるで旧知の友が長い時間の果てに居なくなってしまったような、そんな寂寥感を感じた。
何故、そんな感情が湧いてしまったのだろう――。
バルバモンとの戦闘のさ中、俺の意識は暗転していった。