ChapterⅢ -The Gluttony①- - ぱらみねのねどこ

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ChapterⅢ -The Gluttony①-

 気付けば俺は前後も上下も分からない、まるで自分の存在さえ信じられなくなるような闇の中にいた。ただ、足場も方向もそこに「ある」と思って触れてみると普通に歩けたため別に問題はなかった。闇に目が慣れると、実はそこかしこに死体やら糞山やら腐肉やらまあなんかそーゆーばっちいものが堆く積まれていて、そのどれもに蠅が大量に群がっている様子が見て取れる。
「うおー近寄りたくねえ」
 本心だった。蠅共にも心の底から「こっちくんな」と念を送ってから適当に歩き出す。無音だからか、腕に巻いたシルバーがじゃらじゃら音を立てるのがかなり響いてくる。
 なんであろうと、取り敢えず俺はこのよく分かんねえ空間から出ければならない。だろう。長居してはいけないと、体中の細胞が騒ぎ立てているのが分かる。いや、むしろ体が長い従っており、俺の脳味噌が辛うじてそれを抑え込んでいると言ったところか。
 確か、俺――渡部 桐彦は、親友である真原 針斗に頼まれて、以前手下だった族の奴らを使って殺人現場に騒動を引き起こさせたはずだ。そしてアイツの過保護な先輩、高原 彩利に一報連絡を入れて――まあ言う事聞かねえと後で怖えし――そのまま遠ざかったはずだ。しかし、それ以降の記憶が存在しない。不明瞭どころか存在しない。そうである以上、このコバエ空間(命名俺様)に来てしまった理由を探ることはできまい。
 さてどうしたものか――。そうした俺の耳に、若そうな男の声が聞こえてくる。周囲を見渡せど声の主の姿は存在せず、しかして耳を塞ごうとも声は直接脳裏に響いているのか何なのか小さくならない。そして、その声は聴いているだけで不快だった。これまでの人生で抱いたことすらない嫌悪感が胸の裡からふつふつと湧き上がってくる。
「ふむ。君はどうやら現状への打開策を一つも見いだせず実に暇を持て余しているようだね。宜しい。暇つぶしに私が幾らか話し相手になってやろう。何?話をするつもりはない?構わんよ。私はよく同僚や先達・後輩から『立て板に水』と呼ばれる程度には舌が回る質なのでね。君が返事をしてくれなくとも幾らでも語り続けよう。しかしながら同時に回りくどいともよく注意される。私としては全くそうは思わないし、仮にそう思われたとしても私自身言葉を発するのが好きなものでね、夏場の小五月蠅い蝉のように囁き続けることを約束しよう。ああつまり、私は私の好きなように話すから、君はそれを聞かなくてもいいし聞いてもいいし反応してもしなくてもいいということだ。尤もこの空間にいる以上耳を塞いでも私の声は君の鼓膜を震わせるがね。
 さて暇つぶしの時間だ。何?もう既に結構喋っているだと?何を言うのかね、四方山話はここからだ。
 ベルゼブブ――と言う悪魔に、君は造詣はあるかな?まあ造詣など無くともアレは相当なビッグネームだ。仔細は知らずとも名ぐらいは知っていたり、或いはアレの登場する作品や事件の一つや二つ知っているかもしれぬな。
 羽根に髑髏模様のある巨大な羽虫、ランの奇跡、語りかけてくる豚の生首――等は如何かな。そうそう、蠅騎士団、などと言うアレの親衛隊の名前は、今を生きる若者達の感性から見てどう聞こえるのだろうかね。シンプルで洗練されていて美しいと思うか――ああ、今時の言葉で言うと、厨二病と言ったかね?そう思うか。はたまたそれともセンスが足りない、自分達ならもっと洒脱でイケイケな命名ができると思うか。
 ああしかし、いかん。いかんぞ。我らがこちらに舞い戻る前は兎も角、舞い戻って以降のこの世界において、名と言う物は再び深い意味を持つようになっている。余り節操ない名付けは宜しくない。どきゅんネームと言ったか、あのようなものはまあ、日常生活が送れない程度の害にしかならぬがね。古来より現代にかけて、名前が持つ魔力は強力だ。好き勝手付けていては、大変な目に遭うことになる」
 一呼吸着いた様子なので、虚空に向かって苛立ちを音にして吠える。
「うるっせえな!その大変な目ってのは現在進行形で増え続けだよオラ!つーか蝉よりうっさいわテメェ!」
「おこなの?おこなのかな?」
 更にイラッときた。
「喧しいわ!テメェ一昔前のネットスラングとか一昔前でも既に死語だったりするような言葉ポンポン使いやがって!てめえのうざったい声も併せてイライラと一緒にこっちがハラハラするわヴォケ!温厚な俺様でも激おこだよバーカ!」
 渡部桐彦、人生最大・怒りのカム着火インフェルノである。懐からナイフを取り出して八つ当たり気味にちょっと遠くのゴミ溜めに投擲する。飛来物に驚いて群がる蠅がこちらを向いたが――その顔は、俺がけしかけた元手下共と同じだった。
「は――ああッ?んだァ!?」
 その顔たちは恨めしさすら覗かせて俺を見つめ続ける。俺の動揺を見たのか、頭の中の男の声は楽しそうに震える。
「『同一性のあるものは呪術的観点から見ればおなじものである』。こういう言葉もある。……分かるかね。嘗ての神魔幻想たる我々が復活しつつあるこの現世において、魔術呪術は既に科学に並び立つ理だ。尤も科学の炎などは在りし日にソドムを焼き尽くしたメギドの火などよりも余程強力だがね。例え科学であろうとも年月を重ねれば神秘を宿し魔を超越し得るという良い例だろう。いやはや人間と言う物は恐ろしいな。一度敗北を喫した以上甘く見ていたつもりではないのだが、こちらは蘇ってから今の今まで驚かされっぱなしだよ。
 ……っと、話が逸れたな。君もそれが何なのか知りたかろう。先ほども述べた通り、我らの理において類似性さえあればそれは同一のものであると見做せる。言い張れる。……ああ君達科学の申し子、現代の者らはこう言うかもしれんね。ファジーすぎると。だがそれが罷り通るのが我ら――ああ、既に君も含まれる――の生きる世界だ。
 もう分かったのではないかな?いや、聡明な君の事だ。恐らく私の言葉を聞くまでも無く答えに行き着いたろう。どうかな。聞かせてはくれまいか」
 この耳障りな野郎は訳の分からねえことをぺらぺらぺらぺらまくしたててくる。しかしこの暗闇の中、情報源になり得るのはこいつしかいない。俺はこいつのセリフの中から現状の理解に――或いは現状からの脱出に有用そうなワードを思い返して繋いでいく。
「あァ?だから、手前みてえなクソな――あー『神魔幻想』――?が蘇ってて?俺もその一員にされてるっぽくて?んで類似性さえあれば同一だってんなら、そりゃその蠅共がそのまま俺の昔の手下なんじゃねえの?」
 男の声は嬉しそうに俺の推論――推論と言う程でもない。無駄話の中から必要そうな事だけ抜き取っただけだ――を聞いて愉し気に笑う。その笑みが脳裏に浮かんできて、腹立たしいその姿に腸が煮えくり返りそうな感触を覚える。というか、実際に腹が物凄く熱い。
「うわちッ!」
「気を付けたまえ。この世界は集合無意識の深層なのでな。余りに強い感情は当人や周囲の環境に実態をもって影響を及ぼしかねんぞ。そのようにな」
 声の主は今頃腹を抱えて爆笑しているのだろう。コイツに倣って言うならば草を生やしているとでも言ってやろうか。それがまた非常に腹立たしいが、どうにか自分の怒りを抑え込む。
「んで?続きは?暇潰しさせてくれんだろ?」
 集合的無意識の中だと言う言葉を聞いた。であるならば、つまるところこれは夢だ。適当に時間が経てば覚めるだろうと考えて続きを促す。
「ふむ。ではまた別の話をしてやろうか。そうだな……今度はベルフェゴールという悪魔についてだ」
「おいおい、気が変わり易い奴だな。さっきまでベルゼブブの話をしてたじゃねえか」
 折角暇つぶしをさせてくれると言うのだから会話を挟んでやったのに完全に無視される。再び怒りが沸き上がってきて、今度は周囲のゴミ山が燃えていく。ホント好き勝手喋りすぎだろコイツ。
「ベルフェゴールは怠惰な悪魔でな。ひたすらに怠け者だった。当世にて蘇ってもそこは変わらずだ。しかし一度動き出せばもう恐ろしい。なんとかいう娯楽作品に登場する怪獣王――アレだよアレ。ほら科学の炎で産まれた奴。アレにも匹敵するほど暴れ回る。
 まあその強さについてはそのまま置いておくとして、だ。あやつには面白い逸話がある。『幸せな結婚など存在し得ない』と言うのが真実がどうか調べるため、実際に昔こちらの世界に来たことがあるという逸話だ。そして幾つもの家庭を見守った――とされている。されているが、時に少年よ。君は知っているかな。歴史や逸話と言う物は後世に伝えられれば伝えられるほど歪められていくという事を。この話も同様だ。ベルフェゴールは確かに『幸せな結婚』を求めて集合的無意識の海から這い出して君達の世界に来た。そしてそれだけではなく、実際に十数年ほど結婚生活を営んだことさえあるのだよ。子もなしたし、現代にその末裔もいる。――ああ、因みにベルフェゴールに子供を成すよう唆したのは私だ」
「おー、すげえすげえ」
「称賛痛み入るよ。そうだな、では次は――」
 脳裏に響く声が一旦止まる。何事かと思って疑問符を浮かべていると、俺のいる空間全体が激震した。
「な、何だァ!?」
 気合で踏ん張って転ばないようにはできたが、しかし動揺は避けられない。何故ならば、今のは例えるならばそこそこ震度の強い地震程度の揺れに過ぎなかったが、俺自身はそれ以上に命の危険を感じている。このまま放置すれば命に関わると、俺の中の本能的な部分が吠え立てる。
「ふむ。時間切れか。全くせわしない事だな。ああ構わんよ。さて、少年。命の危機を感じるだろう?車に轢かれかけた時、銃を突き付けられた時、高所から落下せんとする時、猛獣に襲われている時――君の今の状態は正にソレだ。切り抜けたくば、この奥に進みたまえ。――加えて助言をするならば、道中、己の根底にあるものを顧みてみることだな」
「おうコラ待て!手前好き勝手語ってその結果言い逃げかよオラ!もっと役に立つこと話して消えろや!」
「さらばだ。再び見える時があることを期待しよう」
 思わず怒鳴りつけたが、しかし声の主はそれきり音沙汰なくなる。
「ああクソ。マジに消えやがった」
 そして始まる自分探し。凄く、物凄く声の主には苛ついていたが、しかし思考を誘導されているかのように指示に従ってしまう。
「んだァ……?アイデンティティの確立だとかんな思春期拗らせたガキみてえなの中学生までにさせてくれよ……ったく」
 今の俺は……端的に言って刹那主義者だ。飢えて乾いて狂おしいから瞬時の快楽に身を任せる。ヤクだってやったことない訳じゃないし犯罪だって何度も犯した。満たされないから満たされたい。生の充足を感じたい。
「だから、面白え事探してんだよ」
 先と信じる方向に歩みを進める。顔が知り合いと同じな蠅共が全て此方を向いている。
 面白い事を求めて色んな所に顔を突っ込む。だから俺はアイツの先輩と相性がいい。親友自体は俺達の性を面倒臭いと疎んでいる様だが、しかしそれは純然たる事実だ。
「っとと、だから何なんだよこの揺れは」
 奥へ進めば進むほど、揺れは激しくなっていく。世界が激震する度に蠅共は狂喜するように舞い踊り、そしてまるでその瞬間こそが生の絶頂であるかのように死に、地面に落ちていく。
 では何故、俺はそんな享楽的な質になったのか。
 それを考えて――考えるまでもない。
「ああ――分かってんだよ。んなの……思い出させんなや。だから嫌だったんだよこーゆーの……」
 自分がこうなった理由なんて嫌と言う程理解している。
 そして確認する度にほとほと呆れ果てる。自分を殺したくて仕方がない。
 恥ずかしい、なんてレベルの話ではないのだ。それは所謂黒歴史。しかし俺の根底に刻まれたその感情は今でも消えてはいないから、割り切ってやっていくしかないと言うのに。
 酷い自己嫌悪に苛まれながら、俺はこの空間の最奥へと至った。
 ――『同一性のあるものは呪術的観点から見れば同じものである』――。
 そして、サル山のボスたる俺は、糞山の王たる『俺』と出会った。

○○○○○

 俺はデジタル・モンスターの力の一部を使えるような化け物になり、先輩は何故か嘗ての栄光を求めるクソみたいな神魔ことデジタル・モンスターに付け狙われている。
 そんな惨状で、しかもこの街では今も俺以外のデジタル・モンスターが暴れ回っている様だ。テレビを見ればよく分かる。俺も相当な大破壊を繰り広げたものだが、他の場所でも色々と戦闘が行われている様子だ。スラッシュエンジェモンの剣こそ奴と同時に消滅したが、剣が突き刺さった公園の地面は酷いものになっていたし、どうやら戦いの痕跡は消えないみたいだ。
 だからニュースを見ていれば、どこでデジタル・モンスターが暴れたのかすぐに理解できる。大昔の存在が蘇ったという当事者たちがテレビと言う物を理解できるかは疑問だが、デジタルなモンスターと言うのだからそれぐらいは当たり前の常識だと考えて行動するべきだろう。
 即ち、この街で既に戦闘が行われたと考えられる美術館・公園に加え、遊園地・大病院・観光名所の神社、そして俺達がいる住宅街――。これらの場所は、現状デジタル・モンスターとの遭遇の可能性が高い。そいつらが勝ったにしろ負けたにしろ引き分けたにしろ、そいつらがルイの言う善であろうと悪であろうと、そこをそのまま根城にするだろう。
 信仰を集めると言うのは、畏怖されることだ。俺とスラッシュエンジェモンが繰り広げたみたいな――ある意味神話の戦いか――を見せつけられれば、それだけで一般人は恐れを抱くだろうから。俺だって、先輩がいなければこの力があったところで遠からずそうなっていたはずだ。
 まるで戦争。しかも数千の数からなる軍隊を引き連れて移動するのではなく、恐らく一騎当千とでも呼ぶべき存在であるデジタル・モンスターが動き回っているのだからその機動力は既存の戦争概念とは別次元のレベルだろう。最早この街は崩壊するしかない。
 ……そんな状況でも報道を続ける当たり日本人の社畜根性に怖れを成しもするが。現状ガス爆発やら毒ガスとやらとしか説明されていないが、何が起こっているのか理解する人が増えた場合、むしろこいつらの方が信仰を得られるんじゃないだろうか。
「……よし後輩。オフィス街に行くぞ」
 いずれにせよ、そんな惨状のこの街で、しかもルイの厚意(怪しいものだが)からの結界によってほぼ唯一の安全地帯と化したこの部屋から、彼女は出ようと言う。
 確かに、テレビの画面に映っているこの街の俯瞰支店のCG映像において、人の集まるところで――デジタル・モンスターはルイの言葉を信じるならばそう言ったところを狙うと推察される――オフィス街だけは異常な静けさを見せている。
 オフィス街を牛耳っているのは『B.E.E.L』という会社だ。詳しくは知らないが、日本史で学んだ財閥程度には大きな影響力を持っているはずだ。こんな街に本拠地を置いた理由は分からないが、もしかすればデジタル・モンスターを何らかのカタチで補足していて、その上で防御手段なんかがあるのかもしれない。
 もしそうなら、先輩を守ってもらうこともできるかもしれない。駄目だったとしても今のところ被害がないオフィス街ならは、このまま住宅街にいるよりも安全だろう。それに、今は少しでも他のデジタル・モンスターの情報が欲しい。家の中に引き籠るのは最終手段だ。
「ええ……できることならこのまま引きこもっていたいけれど、ルイを全面的に信頼することもできませんしね。俺達も少しは動かないと」
 そう言って支度を始める。持ち物は何もない。戦闘の可能性がある以上、極力身軽な方が良いと判断した。本当はずっとこの場にいて先輩を守っていたいが、もし俺の力が及ばない敵が来た場合どうしようもない。僅かでも情報を得るのは急務と言えた。
 服装は、動きやすさを重視したものだ。先輩もいつものロングスカートではなく――服を取りに戻れないという事もあるが――俺のTシャツとジーンズだ。サイズがぶかぶかなのは仕方ないので予備のベルトを切り詰めて渡した。
「ふふ、折角のデートだから、もっとめかしこみたいんだがな――?」
「駄目です。何があっても貴女を守り通すつもりですが、もしもの時は走って逃げて貰わなくちゃいけないんだから。……せめてそれぐらいは受け入れてください」
 倉庫の奥から引っ張り出してきた俺の昔のスニーカーの紐を縛りながらそんなことを言う先輩に頬が熱くなる。普段のお嬢様然とした出で立ちも綺麗だが、この人は何を着ても似合う。ぶかぶかの衣装でさえも、それがデザインのように見えてしまう――いやまあ、贔屓目もあるのかもしれないが。
「そら、手を貸せ」
「はいはい」
 先輩を立ち上がらせ、部屋を出て鍵を閉める。そして数歩歩いたところで、フッと何かを通り抜けた感覚を覚える。成程これが結界と言う物なのだろう。
「って――何してるんですか」
 立ち止まった俺の腕に、先輩は両腕を絡めてくる。
「何って、腕組みしただけだろう。恋人なら当然の事じゃないか」
「当然……この状況でこれは当然なのかなあ……。いや嬉しいんですけどね?滅茶苦茶幸せなんですけどね?」
「そうだよなあ。いい女に自分の服を着せて、しかもそのまま連れ歩くだなんて、後輩は本当に悪い奴だ」
 ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら俺の顔を見上げてくる先輩に、ちょっとだけ仕返しをした。
「しょうがないでしょうが。先輩だって、一人で外に出ようとしたら震えが止まらなかったくせに」
 何せ、今朝目覚めたばかりの先輩は見るに堪えなかった。服などの調達に外に出ようとしただけで身体の震えが止まらず、十数分抱擁しないと収まらなかったほどだ。
「な――お前、それは言いっこなしだろう!」
「いやいや。でも先輩、凄い可愛かったですよ。先輩には悪いですけど、あの時間がもっと続けばいいと思ったほど」
「~~~~~っ!」
 それきり先輩は顔を真っ赤にして俯いたまま喋らない。けれど俺に体重を預けるその身体からは、自惚れでなければ俺へ寄せる全幅の信頼が感ぜられた。
 そのまま暫く歩いていく。皆家に引きこもっているのか、それとも殺されてしまっているのか。どちらか分からないが兎に角人気のない住宅街を抜け、神社を通り過ぎてオフィス街へ。
 こんな現状で不謹慎だが――いや、現状から目をそらしているだけなのだろう――心地よいと呼べる空気の中、言葉少なに俺達は歩いていた。
 だが、そんな甘い空気を許してくれる程世界は甘くなかった。どうせなら先輩と俺の関係ぐらいには甘くなってくれ。
 蜂蜜と砂糖で塗り固めた虚像の世界が、今の俺達には必要なのだから。
「逢引中、誠に申し訳ありません。ですがどうしても申し上げたい議が御座います故、わたくし今生では『強欲』の席を与えられたバルバトス。こうして参上した次第で御座います」
 しかし、願いは虚しくも受け入れられない。いとおしい虚像の世界は薄い。
 ねっとりとしたその声は、紛れもなくつかの間の平和をぶち壊した。
「く――!?」
「な――クソ、何時の間に!」
 先輩の顔の真横に突如として出現した仮面。確かにそこから首を介して体とつながってはいたが、どこかちぐはぐな印象を与える不安定な姿。
 怯える先輩を庇う様に割って入るが、バルバトスと名乗ったこの男は全く意に介した様子はない。黄金の仮面のくりぬかれた部分から除く瞳に映るのは邪魔をした俺ではなく、一貫して先輩の姿だけだ。 
 ああクソ、どうして放っておいてくれない。戦争なんぞ勝手にやってろ。
「ああ…そう恐怖することはありませんよ。むしろ、そこまで怯えられては傷ついてしまいます」
「お前は何だ……どっちだ……!正確には、どうせバルバトスとやらですらないんだろうが……!今の名前を名乗りやがれ……!」
 ルイに曰く人に仇成す悪なのか。人に救い成す善なのか。しかし後者であると言われたスラッシュエンジェモンとて先輩を襲撃してきた。であればこの街から見て同調すべきであろう善なるデジタル・モンスター共であろうと、俺の敵には違いない。
「ああ、これは失礼……」
 仮面の男は優雅に一礼すると、スーツのジャケットを翻し――翻し終わった時には、その衣装は豪奢な刺繍の施された外套へと変わっていた。白髭は地面に付かんばかりに伸ばされて指先の爪は異様に長く、右腕には髑髏の意匠を象った杖。先端がコンクリートを打ちすえて甲高い音を響かせた。
「わたくしの名はバルバモン。嘗て魔法王に使役された過去を持ち、あらゆる隠された財宝を見通す力を持つとされる、現状での七大罪が一柱。何の因果かこの座を得られただけでなく!加えて当世の貴女に出会えるとは望外の喜び!」
 バルバモンは一瞬の内に俺の視界から消えると、先輩の足元に跪いた。
「貴女は女性として、わたくしは男性として再び生を受けたのも、恐らくは運命のいたずらでしょうや。疎ましき唯一神でさえも、まさかこの様な奇跡が起こり得るとは予想だにしてはおりますまい!正に我々の愛を!今度こそ高らかにこの世界に謳い上げろと!そのような星の巡りに違いありませぬ!
 ああ……ですが、些か解せませぬ」
 一人で地面に向かって、しかし先輩に向かってまくしたてる様に語り続けていたバルバモンが、ここに来て初めて俺をその瞳に捉えた。
 しかし、そこに在った感情は、先輩に向けられたような憧憬ではない。
「わたくしと言うものがありながら、そのような男を傍に置くとは如何なお考えか――!有り得ない!有り得ないのですよ!そう!申し上げたい議とはその事だ!初めは貴女がその間男を利用しているだけかと思っていた!しかし実態はどうだと言うのです!今この時の様に恥を知らぬ行いを成し!あまつさえ貴女はそれを不快に思ってはいらっしゃらない様子――!ああああああああああ可笑しい!可笑しいのですよ!」
 杖を持ったまま頭髪をヒステリックにかき乱すバルバモン。長い杖がガツガツと地面に当たるがお構いなしに振り回され、しかし常識的な硬度でない杖は逆に地面を削っていく。俺に当たったところで何とも思わないが――。
「――やめろ馬鹿。先輩に当たったらどう責任取るつもりだ」
「黙りなさい!わたくしと彼女の物語に紛れ込んだウジ虫めが!あああああやはり有り得ない!貴女ともあろう聡明なお方がこの様な虫ケラに傍仕えさせるなど!
 きっと貴女は錯乱しておられるのだ。この穢れた現世の空気に触れて少しだけおかしくなってしまわれたのか。或いは未だ寝惚けていらっしゃるのか。ふふふ、後者ならばそれはそれは可愛らしい。そうだそうに違いありません。いいえそちらの方が実に素晴らしい!わたくしのキスで目覚める貴女……何と素晴らしいのでしょうか!
 ですからご安心を。わたくしが今に貴女の目を覚まして差し上げましょう。これからは何不自由ない生活を、わたくしめがご提供致します。そう、それこそが我が望み――!その為にも、そこなお邪魔虫を見事対峙してせしめましょう――!」
 感情の起伏の激しいこのデジタル・モンスターは、先程自分を「強欲」の席にあると評した。しかし俺の私見で言えば此奴の言動はまるで既に打倒した「色欲」か、未だ出てきていない「嫉妬」に該当するのではないかと思われる。二十年近く生きてきた俺の感じ方は間違っていないと思われたが、心の奥底から「紛れもなくコレは強欲だ」と確信が沸いてくる。
 ただ、こいつが何であろうと構わない。一度殺したリリスモンであろうと、それかもしも天使共の一体であったとしても。先輩が目的であると分かった時点で容赦するつもりはないし、彼女に指一本触れさせるつもりもない。人を間男呼ばわりしたのだから、このデジタル・モンスターは猶更だ――そう思って、腕を変質させて飛び掛かろうとした矢先だった。
「巫山戯るな!正直お前の話の論点は分からない。だが、よりにもよってお前は、私の後輩への想いを、錯乱しているからだとか、寝惚けているからだとかで片付けるつもりか!寝惚けているのはそちらだろう!」
 先輩が食いついてしまった。デジタル・モンスター相手に物怖じしない――或いはしていても今の言葉が我慢ならなかったのかもしれない――のはありがたい事ではあるのだが、この状況下でそれは制止をかけたくなってしまう。
 先輩に否定されたバルバモンは更に絶叫する。
「おおおおおおぉぉぉぉおおおお―――――なんと嘆かわしい!この私を前にして今なおご自分の狂気をお認めにならないとは!……ならば仕方ありません。少しばかりの荒療治を――」
 立ち上がってこちらに杖を向けるバルバモン。戦闘は避けられまいと、先手を取ろうとして足に力を込めたその時、空が急に翳った。
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