ChapterⅤ -The Gluttony②-
「いやいやいや、すばらしいよ君!今、危うく私の存在が画面から消え失せるところだったからね!ナイスアシストだ!主のご加護を祈らせてもらおう!」
「んなもんこの身体で貰ってもバステ付加にしかならねーっつの」
底抜けに明るい声がどうにも気に入らない。俺が悪魔――ベルフェゴールの代行であり、彼がそれと敵対する天使――ヴァーチャーに値する存在であることもこの感情に関与しているのかもしれないが。いずれにせよ、桐彦とはまた違った軽薄さを持つこのデジタル・モンスター。味方に付いてくれたところで、好きにはなれそうにない。
「御託はいい。さっさと知っていることを答えてくれ」
「ふむ、ではお答えしよう。私が。この私が!天使であり英雄足りうるこの私が!」
どうしよう。果てしなく鬱陶しい。自分が正しいと信じて疑わないというか、自分の言葉や仕草に悦に入るというか、兎に角人の話をあまり聞かない類の人物の声色だ。
「私からも頼むよ。早くしてくれ」
「ややっ、可憐な乙女の要請とあらば巻きで説明せざるを得ないっ!では不肖クラヴィスエンジェモン、まずは知る限りの神魔の情報についてお教えしよう!」
「いや、俺が聞いたのは『戦争』とやらを収束させ――」
「まず!君達が対峙したバルバトスとリヴァイアサンだな。その他、私の上役としてセラフ・ミカエルが現界を果たしている」
「あ?そこまで分かるってことは、もう接触もしてる訳?」
ミカエルと言えば、そこまで神話や伝説に詳しくない――或いはベルフェゴールの記憶を手繰ることができなかった――俺でも触りぐらいは知っている。四大天使の一人であり、唯一神から最も深い寵愛を得た、神への愛で燃え盛る天使。成る程確かに、力天使であるクラヴィスエンジェモンの上役と呼ぶに相応しかろう。
桐彦の問いに答える彼によると、セラフ・ミカエル――セラフィモンは現界直後、怪我人・病人の集まる大病院に真っ先に目を付け、他のデジタル・モンスターの驚異から彼らを保護することで信仰を獲得しているらしい。
「故、少年らは大病院へは近付かぬ方が賢明だろうな。セラフ・ミカエルは積極的に打って出るつもりはないようだが、君たちの持つ魔王の力をみすみす見逃すとは思えぬ」
加えて言うならば、既に相応以上の信を得ており、最盛期――神魔が幻想ではなかった時代――に近い力を獲得しているそうだ。デジタル・モンスターが、永い時を経て嘗ての立場や力を紛失しつつある神魔を原型としている以上、同様に信仰を獲得しているデジタル・モンスターでなければ手も足も出なかろうとのこと。専守防衛のスタイルをとっているからこその強化ではあるが、無闇に仕掛けて良い手合いではないだろう。これまで出会った約半数のデジタル・モンスターが先輩に狙いを定めている以上、いつまでも無視していられるというのは楽観的観測ではあるが。
「それで、そのセラフィモンは、他の奴らみたいに先輩を狙ってきたりすると思うか?」
とはいえ結局のところ、俺の天秤は終始これに尽きる。一時は桐彦の登場で行動の指標が狂うかと思ったが、あいつ自身、もしかすると俺よりも強いかもしれないし、そこを心配する必要はないだろう。だから、俺が力を引き出すベルフェゴールへの義理立てこそあれど、セラフィモンが先輩を殺そうとする可能性があるならば、バルバモンをさしおいても打倒せねばなるまい。
「今のところは、近付かなければセラフ・ミカエルの攻撃を受けると言うことはないだろう。しかし、十分なだけの力を取り戻して以降は、街に潜伏している悪魔共を討滅するために出陣なさるかもしれないね。
他にはパワー――スラッシュエンジェモンは君が討滅したようだから……ふむ。居場所は分からぬが、ルシファーもこちらに出てきているらしい。セラフ・ミカエルが血眼になって探していた」
「後輩――?」
何か答える前に、先輩が割り込んで俺に目で訴えかけてきた。
ルシファーことルイとは、そこそこに交流があると言える。しかし、味方になると宣言されたとは言えクラヴィスエンジェモンは天使だ。神魔に自我を飲まれていない俺と桐彦だからこそコイツが容認している可能性も否定できない以上、無闇矢鱈にそのラインを公言するべきではないだろう。
「――ええ、分かってます。それで、もう終わりだろ?この状況を収めるにはどうすればいいのか、早く教えてくれ」
アイコンタクトを済ませ、これ以上他のデジタル・モンスターの情報が出てきそうにないことを察した上で話を本題に修正しようとする。しかし、肝心の語り辺は本題に入ろうとはしない。どうあっても話を逸らそうとするクラヴィスエンジェモンに答えを要求し続けて何度か目になった辺りで堪忍袋の尾でも切れたのだろう、桐彦が銃を持って空に向かって無駄に撃ち始めた。
「オラとっとと話せや!デジタル・モンスター3体分の戦力が揃ってるったって、別に俺達ぁ一枚岩じゃねえんだからよォ!」
「ま、待ってくれ給えよ君ぃ。重大な事実をカミングアウトするには、それなりに長い語りが必要だろう?」
「じゃあもう十分だろう。キリキリ話さないと後輩をけしかけるぞ」
「俺ですか!?まあいい加減苛ついてたしやりますけど」
「よし行け後輩!」
「ちょ、ま、待ち給え答える!答えるから!実はだな――」
「あ、分からんとか言うったらダブルインパクトな」
「――いや分からないんだから仕方ないだろ!」
まさかの無知だった。いやまあ、自分達が復活できたのも奇跡のような偶然だと、そうルイが言っていた以上予想はできていたが。
しかし、となると情報が少なすぎる。文明の発達・浸透と共にデジタル・モンスターが生まれたというならば、文明を破棄すれば彼等も存在意義を失うかもしれないが……。もし事が巧く運んだとして時間がかかりすぎるし、そもそもコイツ等が新たな――再臨した、と言うべきか――神魔となって君臨し続けるかもしれない。
いずれにせよ、無闇な行動はリスキーだ。桐彦がこのふざけた舞台に参入した以上、先輩にあだ為すデジタル・モンスターを屠りつつ情報収集することも可能だろう。
「この『戦争』を収める方法だろう!?知らぬ存ぜぬ何も分からぬ!」
あれこれ思考する間にも、クラヴィスエンジェモンは向けられた銃口からその身を庇おうと両腕を前に突き出している。
「ッチ、ったくしゃーねーなぁ。慌てぶりから察するにどうやら嘘じゃねえみたいだし……」
銃口を下ろしてホルスターにしまいながらも不満気な桐彦。よく見れば先日よりも鋭さを増したような双眸は僅かに彷徨い、俺を捕らえた。
「俺に振られても困る」
額に手を当て天を仰ぐ。
「だぁよなぁ」
つられてなのか分からないが、それは彼も同じだった。
「って、そう言えば」
「あ?何よ?」
一連の騒動で追求の機会を逸していたが、俺にはコイツに聞いておかねばならないことがあった。
『お前、あの力は一体――?』
『何危ねえことしてんだ、お前の性格は知ってるけど』
『美術館で分かれてから、何してた?』
『つか、出待ちでもしてたのかよ』
最後の一つはこの状況で問いかけるには少々趣旨が違うが、幾つもの疑問が脳裏を駆け巡る。
「お前……デジタル・モンスターに、喰われたのか?」
逡巡の後に口をついて出たのは、そんな問いだった。何よりもまず、親友の自我の残存を確認する質問。俺の目の前にいて、俺を親友と呼んだこのデジタル・モンスターに変貌できる男は、未だに渡部桐彦と呼んで相違ない存在なのか――。
結局のところ、先輩のみで天秤を固定していたつもりでも、そこまで割り切れていなかったのかもしれない。
けれど、ベルフェゴールの記憶を追体験し、友誼というものを再確認した今となっては、少しだが「それもよし」と思えていた。
「そりゃお前――」
固唾を呑んで見守る中、こいつは意にも介さぬように、あっけらかんと答えた。その語尾に愉快そうな笑いすら滲ませながら。
「――逆に喰ってやったに決まってるだろ?それともお前アレか?この俺様が、たかが蠅の化け物に負けるとでも?」
「は、はは……」
喰ったと。神話に語られる伝説の存在であったモノの魂と競り合って勝利したと、この男は言った。
「……凄え。やっぱり凄えよお前」
本心から、彼を賞賛する言葉が出てくる。ベルフェゴールがその識能ゆえに表舞台に出ようとせず、その上で先輩の存在があって漸く神魔の力の一部を振るっている俺とはモノが違う。
「お前が付いてくれるんなら百人力だ。そこのエセ天使は役に立たなかったけど、これから協力して――」
友人の安否を案ずる必要がなくなったからか、その存在の頼もしさを認識したからか、俺は自然とそう思っていた。彼がこのまま俺達の陣営に立ってくれると。
思えば、これは完全にこの男を見誤っていたと言う他ない。
「いや、俺は別行動を取らせてもらうぜ?」
ここまで俺の方を見据えていた猛禽の瞳は、ここでちらと先輩の方へ向けられた。それは本当に一瞬だったから、盗み見られた当人すら、そのことに気付いていないようだった。
「別にその事を気にしているんだったら――」
「あ゛?」
刹那、桐彦から剣呑な雰囲気を感じ取ったのは錯覚だっただろうか――。
先輩と俺の関係を気にしているんだったら杞憂だし、そもそもこんな状況で言ってる場合じゃないだろう。そう伝えようとした途中で、破顔した彼の方から会話が断ち切られる。
「馬っ鹿、そんなんじゃねえよ。別に深いイミはねぇ。俺は俺で調べたい事とかあンだよ。」
脇に停めてあったバイクに跨り、にやけ面でこう続けた。
「んじゃ、次の機会まで俺はこれで。ちゃんとその人守ってやれよ針斗」
「オイ待てよ――」
制止も虚しく、瓦礫の悪路をものともしないモンスターマシンは瞬く間に豆粒大になった……。
……と思ったらちょっと戻って来た。何やら叫んでいる様子だったので耳を澄ませる。
「あ、あとアンタ!その二人デキてるから、あんま干渉してやんなよ!」
なんだアイツ。少々げんなりした表情で奴を見ていると、即座にUターンして今度こそ見えなくなった。
「ん……いやまあ、それはその通りなんだが。前より関係も変わったからか……こうしてアイツに明言されると、少々気恥ずかしいな」
とは言え、赤面を隠しているのか伏し目がちな先輩という珍しく且つ素晴らしい光景を視界に収められたので、まあ感謝しておこうと思う。
ちなみに、釘を刺された当人であるクラヴィスエンジェモンは何というか「理解ある大人」風の雰囲気を漂わせてうなずいていた。
「まあ、実際問題君達と拠点を同じくするつもりはない。ああ無論、彼の言う通り気を遣っているからではないぞ? 正味の話、戦力の一局集中は避けたいところだ。私は私独自の目的で動き、お嬢さん方を見出したがね、復権を目指す者等にとっては、人間の殺戮や、衆人環視での同胞――デジタル・モンスター――の殺害が最も近道だからな。手っとり早い信仰の獲得手段は"布教"ではなく"恐怖"だ」
矛先が自分達の方に向けば、数多の命をたやすく吹き飛ばす存在。神魔幻想――デジタル・モンスターとはそういうものだ。
そして、それを更なる上から押し潰す存在。紛れもなく恐怖の対象であり、恐怖とは転じて畏怖となる。畏怖の対象は崇められる――そのものが人間を庇護するにせよ、蹂躙するにせよ、だ。
それ故に、ベルフェゴールの代替の席に座った俺と、曲がりなりにも現代まで擦り切れず残ったクラヴィスエンジェモンが一所に留まるべきではないと言う彼の意見は、ああ成る程、至極妥当なものだろう。
「ああ。私も同感だ。後輩から少々だが、現状についての説明も受けているしな。この『戦争』か――?が、壷毒の如く最後の一人まで続くものではないと思いたいが――ともかく、バトルロイヤルの定石は"戦力の確保"以前に"勝ち過ぎないこと"だからな。
そう言った点では、後輩――自惚れでなく言うが、後輩及び私――は現状、うまくやり過ぎた」
先輩の言う通りだ。『魔王』の2柱を辛くも撃退――というだけならばまだしも、そこに3体ものデジタル・モンスターの関与があると分かれば、袋叩きも免れまい。
「ええ。ですから、まあ桐彦とは何らかの事情で離別、クラヴィスエンジェモンもバルバモンとリヴァイアモン相手に因縁か何かがあり、アイツ等とやり合う時だけの同盟――とでもするところが落とし所でしょうかね……ま、対外的には、ですが」
「ああ、案外その点も加味して、別行動を取るなどと言い出したのかもしれんな。アイツも。……あんな戦いをしながら、頭の回転の速い事だ」
友の行いに先輩と互いに苦笑し、クラヴィスエンジェモンを見つめる。
「フッ――いやいや満点だとも!なんだ、ヴァーチャーが導く点など、これっぽちも無いではないか!」
腕組みし、天を仰いで呵々と笑う。こんなザマでも、仮に壊れているとしても、クラヴィスエンジェモンは神代の時代から存在しているのだ。それが是と言うのだ、少なくとも今の方針に大きな失態はないと見える。
「加えて言うならば、乙女の剣になるのは英雄の務め。少年が彼女の盾であるならば、私は道を切り開く矛となろう」
そう言って、彼は先輩の前に膝を付いた。続いて彼女の手元に『ザ・キー』と呼ばれていた鍵剣が出現して浮遊する。……何のつもりだろうか。かしずかれた先輩も停止している。
そのまま暫しの時が流れ、クラヴィスエンジェモンが完全に沈黙して動かぬままであるのを察したか、先輩は大きく溜息を吐いた。
「……騎士の叙任の仕方は一応知っているが、するつもりは無いぞ?私の騎士など、後輩一人以外には有り得ん」
ああ、叙任式の真似事だったのか。
叙任を拒否する先輩の言葉を聞くと、クラヴィスエンジェモンはさほど気にした風もなく立ち上がった。
「ふむ、無理を言うつもりはないからな」
飄々と続ける遙か過去に存在した天使に、先輩はこう補足した。
「それと、叙任式のやり方など、今の人間は普通知らんぞ?貴方の知ってるそっくりそのままが残っているとも思えんしな」
「何だと!?」
いや、そこで驚かれてもな。
その辺りの偏差修正ができない様子を見て、ちょっと尊敬したのは早計だったかなー……などと思い、さし当たっては帰路に就いた。
○○○○○
自信家な優男といった風貌――ああ、クラヴィスエンジェモンに食われた人間なのだろう――に変化した彼と別れ、とりあえずはどんな襲撃を受けることもなく自室に帰還できた。やはりと言か何と言うか、高位の存在は互いの波動を察知し合えるらしかった。デジタル・モンスターと化して気配が分からなくなっているらしいが、一度相対すれば、人間の姿を解いた瞬間にそのことが分かるらしく、ベルフェゴールの波動を感知したとあればこちらへ急行してくれると言っていた。
「ふふ、ご苦労だったな後輩」
そんな風に俺に笑いかけながら、先輩は勝手に座布団を動かして壁にもたれ掛かっていた。ぽんぽんとクッションを叩く音に目を遣れば、右隣にも同じく座布団が置いてある。
「こっちは正直気が気じゃないですけどね。俺の恋人はどうも人外に好かれやすいようで……。」
誘われるままに隣に座り込む。右膝を立てて体幹を支えつつ、まだ血に塗れていない左手を先輩の右手に絡めた。
「でも、ま。取りあえずは落ち着けますね……」
部屋の中にいたところでバルバモン辺りの襲撃は懸念されるが、それを差し引いてもやはり精神的な安息が段違いだ。戦火の中でも、15分程度でいいから装備を緩め、気を張らないですむ時間を確保せよといつか本で読んだが、それも納得がいく。
そのまま、少しの時間が流れる。何やらじれったい雰囲気に、自然と互いに肩を寄せ合う形になる。そのまま、恐らく本当に、互いに何も考えていない時間が流れた。
こんな風に彼女の体温を感じていると、今この街を、デジタル・モンスター共が我が物顔で歩き回っている事すら忘れそうになる。
緊張の意図が解れ、このまま眠りに落ちてしまいたい程の気だるさに包まれながら、沈黙の中に先輩が口を開いた。
「はぁ、全く……どうしろと言うんだ。確かにオカルトは好きだったが、こんな事態は望んでいないし、こうも狙われてはな――」
「――でも、ま。帰着点はまだまだ手探りですけど、この混沌の中で何とかやって行く目は見えましたね。……よく分からない幸運も味方に付いたし、桐彦もいつの間にかこっちにいる――って、先輩?どうしたんですか?半眼でこっち見て。いやどんな表情も可愛いですけどね?」
言葉の途中で、ふっと先輩の髪が揺れたのを感じて左を見る。睨む様にこちらを見る先輩の表情は、よく見ればまるで俺を糾弾するかの様だった。
「――?俺、何か不味いことでも言いましたかね……?」
剣呑さこそ感じなかったが、どうにも別方向の危惧を感じた。それはどちらかと言うと俺に生来備わっている危機感知能力ではなく、ベルフェゴールの力を介して伝わってくる。
「……。……はぁぁぁあ……お前と言う奴は……」
らしくもない溜息ーーいや、嘆息、と言うよりかは諦観から思わず、といったところか。長く吐き出された呼気が先輩の髪を揺らす。
「言っても分からんなら、こうだ――!」
「ちょ、何を――」
一瞬の内に、立てた膝に乗せていた右腕を取られる。そのまま先輩は膝立ちになってこちらに詰め寄り、その整った麗貌が俺の眼前で停止した。
「――。――」
白磁の肌の中で淡く自己主張する桃色が、俺の同じ部位に軽く触れて、離れた。
「……この私がこんなに至近距離にいて、話題に出すのがヴァーチャーと渡部って、お前なんなの?ホモなの?」
その表情は挑戦的で壷惑的。不適な笑みは、彼女が求める行為を歴然と表していた。
正直、この状況下でとは思わなかったが、どの道バルバモンの辺りが少し落ち着いたらこちらから持ちかけるつもりではあった。……まさか別の男の名がスイッチになるとは思っていなかったが。しかもこの状況でホモとか言うのは止めて欲しい。
「――いいえ?俺はあくまで先輩一筋。断固ヘテロですよ?……射程に収まったからと言って、すぐさま月を撃ち落とすのでは風情がないでしょう」
お返しとばかり、合わせた手はそのままに、先輩を壁へと追い詰める。俺の腕の中でこちらを見つめる先輩は、成る程リリスモン如きとは比較にならないほどに魅力的だ。
「有象無象では決して届かぬ月に手が届くんだ。そこに月の意志がないとでも思うのか?――不安なんだよ。結局、私は守られているだけだからな。状況が状況だから、保身がないなんて言えないが……お前が私を最優先してくれるのは分かっているが――」
今度は俺が、彼女の口裂を塞いでやる。吹けば飛びそうに儚く、柔らかなリップの感触を愉しむ様に、そっと顔の向きを前後や斜めにずらす。押し付け、離れかけたところで再び密着させる。
「……大丈夫。輝く月を突き刺す風が苛むならば、風避けならホラ、ここにいますよ――?」
「……その風避けにこそ、月は苛まされたいんだよ」
言って、彼女は瞼を降ろした。
絡み合う右手と右手を解いて、指先を先輩の顎に添え、僅かに上を向かせる。
「ん……」
その唇が薄く開いた瞬間を見逃さず、上の半分を自分の口唇で挟むように啄む。そこから顔の位置を僅かに下げ、本来無味な筈の口腔を互いに啄き合う。
「ん……くぅ……んんっ……」
蜜の様に甘い味を貪る最中、跨いだ脚の中で、先輩の動きを感じる。たまらず腰に手を回し、顔と顔に少しだけ間を開ける。
「……まだ、不安ですか?」
仄かに上気した頬は、幽鬼の様な肌の白に赤みを差して美しい。その様子に、「これ以上は禁忌だ」と、心のどこかで、何故か思いながらも尋ねずにはいられなかった。
「……ああ、もっとだ。もっと私を、安心させてくれ……」