朽ちた情報統合樹 - ぱらみねのねどこ

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朽ちた情報統合樹

 さて、「さあ、軟膏を塗りたまえ! ほら!」と言って服を脱ごうとするJを風呂場に押し込んで数刻が経った。「美少女の柔肌だぞ!? なぜだ!」と騒いでいた。頼むからシリアスを保ってくれ……まあ脱がせたいは脱がせたいが、いくら何でもこの状況は性欲より好奇心が勝ると言うものだ。あと猜疑心。
 『デジタル・モンスター』の中から飛び出してきた、J本人とウェンディモン。加えて前者はロイヤルナイツの武装を軽々と取り出してのけた。
 考え得る可能性は、正直思いつかない。ネタ晴らしを待つしかないのだろうか。それはそれで一読者として癪な感じがある……。Jが戻ってくるまでに何か考えつかないだろうか。
 頭の中であれこれ可能性を想定してはこねこねしていくが、今回のこれはちょっとハードルが高い。何せ、これまで遭遇してきた怪異とは格が違う。ちょっとした都市伝説が精一杯だったのに、ここにきて知人の創作物が現実になるだと? 確かに、都市伝説だって元はネットのいち書き込みや田舎町の言い伝えに過ぎず、そうした意味ではJの『デジタル・モンスター』が奴曰く"新進気鋭のフォークロア"化する可能性も低くはあるまい……。
「あがったよー。包帯ももらった」
 と、そこまで考えてJの言葉に思考を遮られる。
 流れる銀髪に水滴がまとわりつき、湯上がりのJは予想以上に美し――いやまて、それよりも。
「……その服はどっから出した?」
 いいのだ。例えば俺にコスプレ趣味があったとして、いつの間にかJがその衣装を引っ張り出していたとしても。あるいは俺が未成年者略取誘拐犯で、なんかいい感じに女の子を隠したものの一着だけ服を隠し忘れていて、それをJが引っ張り出していたとしても……いや全然よくはないが。
 だが、それはないだろう。そんなことが可能なら、どんな想像だって覆される。
「こんなもの、私にかかればちょちょいのちょいさ」
 くるりとその場で一回転してみせるJ。再び黒衣に包まれた痩身
をブラックインバネスで覆い、更に頭の上には黒いシルクハットが鎮座している。その後で俺の方へ向き直り、にやけ面を浮かべた。
「おやおや、それともツェーンはこっちの方がお好みだったかな」
 もう一回転。すると先ほどウェンディモンのデストロイドボイスを受け、ボロボロに破れてしまった衣装に代わる。
 さっきは血を流すJの姿に激高していて全くそんな印象は抱かなかったが、改めてみると中々"良い"衣装にも見える。
「うーん、それはそれで目の保養になるな。服の下の包帯も実にいいぞ」
「!?!!!!?!???!」
 顔を真っ赤にして元に戻してしまった。とてもとても残念だ。
 しかしよく見れば、左腕の動きがよろしくない。イージスを使用して尚、衝撃を殺しきれず負傷したようだ。そう言えばこの腕にアームロックキメたな、と思いつつ、Jに接近して左腕を掴む。
「あ、あわわ、ちょっと待ちたまえ。まだこここ心の準備が」
「ちげーよ馬鹿、これは治んねえのか」
「あ、な、なんだそんなことか」
 露骨に落胆されるとちょっと困る。
「ふっふっふ、しかし私の怪我を気にするとは、つまり私に気があると見て良いな!?」
「あーはいはい、普段の調子に戻ったようで何より」
 それよりも説明をしろ、説明を。
 涅槃に至ったつもりの表情で無言を貫いてやると、観念したのか語り始めた。なんとなく扱い方がわかってきた気がする。
「傷についてなら、心配は無用だ。機能不全になることは絶対にない」
 それを聞いて安心した。後遺症が残りでもしたら、最悪俺が一生Jの左腕になってやらないといけなくなるところだった。
「……つつつツェーン、今何かとても嬉しくも恐ろしい事を考えなかった?」
「……? いや、何も」
 女が自分を守って負った傷なんて、一生かけたって返しきれない恩だろう。
 珍しくドン引きしたような目で俺を見つめるJが、出会って数日に過ぎないがとても新鮮だった。「君も大概度し難いな」なんて台詞は聞こえない。聞こえないぞ。
「で、絶対に治るって保証はどこから出てるんだ」
「その前に」
 真剣な前置きの言葉。これから事件の真相が語られるのだ。摩訶不思議にして物理法則を超越したこの舞台の。
「君は私が出した装備について、どこまで把握しているね」
「順にイージス、グラム、アヴァロン、グレイソード、Vブレスレット、ガルルキャノンだ」
 舐めるなよ。俺はお前の大ファンだ。
「そう、そしてそれらに共通するのは、デジタルワールドの最高セキュリティ――ロイヤルナイツの武装であるということ」
 理解している。だが、つまりそれは――。
「なれば、その武装を自在に現出させられる私がなんなのか」
 Jという人物は、デジタルワールド最強の守護騎士達を従える存在に類する。それは即ち――。
「ーーイグドラシル」
 眼前の黒衣を見る目が変わる。
 この人物が、イグドラシル。『デジタル・モンスター』の中で、デジタルワールドを統括するホストコンピュータ。
 ――本当に?
「当たらずも遠からず……無論、幾ばくかの脚色はあるが」
 答えは他ならぬ当人から。
「我が小説『デジタル・モンスター』はね、ツェーン。私の自伝なんだ」
 信じ難い。


 ならば、あの冒険譚は真実だというのか。多くの者が熱狂するほどの描写は、まさしく自ら見てきたものだったからなのか。
「先ほど私は言っただろう。世界は表裏一体で、Realの裏側にDigitalがあると」
 聞いた。そしてそれは、『デジタル・モンスター』内の設定で――。
「――設定じゃないんだ。だけど私たちは、いいやこの惑星は、その事実を忘れさせられている」
 縋るような思考は、イグドラシルの類縁を名乗る女によって破壊された。
 喉が渇く。目が霞む。呼吸が乱れる。脈拍は上がり続け心臓の音が五月蠅いほど高鳴っている。だがそれは期待でもなんでもない。俺たちが暮らしているこの常識が粉微塵に粉砕されることを、脳が、身体が、拒んでいる――。
「それは、一体――なんの、為に」
 打ち砕かれた現実の残滓。元々薄氷に過ぎなかったそれを必死にかき集めながら、荒唐無稽な彼女の話をできる限り理解に落とし込めようと苦心する。
 どうしてだ? どうして俺は、この話を聞いてこんなに動揺している?
 Jの妄言でないことはさすがに分かっている。この状況で虚言を放つ人物ではないし、実際に俺はデジタル・モンスターを目の当たりにし、彼女と同じように武器を召還さえしてみせた。
 しかしだからといって、これまでの常識が破壊されたからといって、こうまで精神が揺らぐのは、まっとうと言えるのだろうか――?
 なにかが、おかしい。
 有羽 十三という人物を構成する歯車のどれかが、この短期間に致命的にズレてしまっている。
「少し、休もうか」
 柔らかな女性の掌が、俺の頭に置かれた。
 そのまま頭蓋を撫でるように、左右に数度。
 茹だるような熱を放っていた俺の脳が、急速に冷えていく。
「ごめんよ、ツェーン。君がこうまで慄くとは」
 気付けば視界はスキニーのスラックスと、それを覆うとんびの黒で埋められていた。
「いや……」
 立ちの姿勢から情けなくも立ち上がり、続きを促した。
「ふふ。これは『デジタル・モンスター』のネタバレを含むよ。それでも君は続きを聞くのかい」
 優しげな微笑みは、遠くを懐かしむような声色に埋もれ、とても儚く見えた。
「当たり前だ」
 そして俺は、そんな彼女の笑顔を護りたいと感じていた。
「ならば答えよう。舞台は『魔王戦役』の後の話だ」


 Jと言う名は主人公の――私の師の名で、右も左も分からないままデジタルワールドを彷徨い歩くこととなった私の唯一の指標となったのはツェーンならば旧知の事実だろうし最早言うまでもないだろう。彼のおかげで今の私があるし、第二章『Digi-Mentals』において退場させてしまったのは実際に彼が死んでしまったからでそれが偏に私の力不足で、そのため数日寝込む程に落ち込んだのもまた本当だ。その後私はJの名と服装を継ぎこうして今に至るまで活動とロールプレイを続けているが今でも自分が紛れもないJをやれているかは分からない。とは言え君に実際に会いに来るときにまでJのロールをするつもりはなく、Jのコスプレをした普通の女の子になるつもりで昔の自分という者をとてもとても久しぶりに出したのだけれどどうだったかな。私の好意は君に届いているのだろうか。いやさ届いていると信じたい。
 とまあ話がずれてしまったが、結局のところ大切なのはその後だ。Jを名乗りデジタルワールドとリアルワールドを駆け回っていた私は苦難の果てに最終章『魔王戦役』に至る。世界を覆い尽くす暗雲とそれを生み出す七大罪の魔王たるデジタル・モンスター達。だがその当時の私はまだ知らなかったんだ。無邪気にも無垢にも見える行いでその魔王達を打倒し、この世界が無限に広がる平行世界の一つに過ぎないと悟るまでは。ああ、できることならばかつての自分を殴り飛ばしてやりたいさ。彼ら七大魔王はその強大すぎる力故に無数の平行正解に均等に力を分かたれて存在していたのだから。それを知らず私はこの世界に存在する魔王達を殲滅してしまった。殲滅できてしまった。
 そして大いなる理はそれを許さなかった。一つの世界から魔王を殲滅し、他の世界の魔王をより強大なものにしてしまった私。世界の均衡を乱した私に、大いなる理はとある罰を与えた。それが情報統合樹イグドラシルの端末としての永久残業だ。『魔王戦役』でこの世界のイグドラシルは枯れてしまっていて、無論その手足として動くべき全十二体のロイヤルナイツも全滅してしまっているからね。随分と簡略化してしまったがこれが私の軌跡。そして私がナイツの武装を顕現させることができる絡繰りだ。枯れたとはいえ情報統合樹は情報統合樹。そのデータベースにアクセスすることはあの冒険を終えた"J"にとっては造作もないことだった。そしてアクセスができればデータを表裏一体のこのリアルワールドに持ってくることだって容易なのさ。


「以上。これが世界の真相だ」
 熱の籠もった様子で一息に告げ終え、Jはゆっくりとソファにかけた。
 正直な話、理解に悩むことはない。前提条件は履修済みだ。
 だから一切は、俺がそれを受け入れられるのか否か。
 答えは、あえて自らに問いかけるまでもなく。
「信じるよ」
 静かに頷き、Jは小さな顎に手を当てて考え込みながら話し始めた。
「……私の仕事は、デバッグさ。隔たった二つの世界の境界を越えるデジタル・モンスターを殲滅すること。私が乱してしまった世界の均衡を、私が壊してしまったホストコンピュータの代わりに保たねばならない」
「そうか」
「その過程で、私は小説『デジタル・モンスター』を執筆した。いくらイグドラシルの端末になったとは言え、私の身体は一つしかなく、派遣すべきナイツもいない。故に創作という形でデジタル・モンスターの存在をネットの大海に広め、数多の都市伝説の一つとして、この蛙噛市に顕現するよう誘導した」
「なるほど。つまり、先日チャットで持ちかけられた『新進気鋭のフォークロア』という話の時から、俺はお前の掌で踊らされていたって事か。今後も、デジタル・モンスターがこの街で暴れまわるってのか」
「それは違う!」
 コーヒーテーブルに勢いよく手をつき、Jは身を乗り出して抗議した。
「蛙噛市を舞台にしたのは、確かに故あっての事だ。君を危険に晒してしまったのは、私の責任だ。だけど! 君を踊らせて愉しむつもりなんて微塵もなかった! そんな邪神みたいな心づもりは――!」
 端正な顔が台無しだ。今度はJが、ひどく狼狽してしまっている。だから、この台詞を贈ろう。
「知ってる。知ってる。一切、ご承知ずくだ」
 "J"のキメ台詞。
「え――?」
「一応、言ってみただけだ。デジタル・モンスターのデバッグ作業だって、付き合ってやるさ。
 ……で、まだ聞いてないことがあるんだけどな」
 きょとんとするJの目の前で、テーブルの上に金色の剣を置いた。
「――この剣は。ズバモンはなんなんだ」
 『デジタル・モンスター』の設定に則るなら、一口に言えば俺のパートナーデジモン。しかし、剣の振るい方以外は一切語らない。今も、無言の黄金が鎮座しているだけだ。俺が知っているのは、彼女が作中で語ったことだけだ。分からないならば、明かされていない要素があるならば、本人の口から聞く他にあるまい。
「それは……」
 珍しく、翠の瞳が泳いでいる。数刻俺と視線を会わせぬように右往左往して、やがて意を決したのか、Jは語り出した。
「君の……パートナーデジモンだろう……」
 ウェンディゴへのなりかけを冷徹に見捨てたのと同一人物なのだろうかと思う程おずおずと。
「成る程。じゃあ次の質問だ。さっきお前は『この惑星はデジタル・ワールドの存在を忘れさせられている』と言ったな」
 Jの華奢な肩が、飛び上がりそうに震えた。
 糾弾するつもりはないのだ。ないのだが……。
「それを為したのは、誰だ」
 デジタル・モンスターがこの街に現れる。その理屈は良い。イグドラシルの統治の及ばぬ世界で、いくらでもセキュリティホールは見つけられるだろう。
 けれど、『デジタル・モンスター』内での出来事が本当にあったのなら、俺たちはデジタルワールドの事も、デジタル・モンスターの存在も覚えていなければならない。あれ程の社会現象になって尚、忘れているなどあり得ない。
 唯一それを為せそうな情報統合樹イグドラシルは、『魔王戦役』で既に枯れている。
「――大いなる理について、詳しいことは私にも分かっていない」
 瞳を左右に揺らし、苦虫を噛み潰しながらとつとつと語られる。
「私がその存在に気付いたのは、朽ちたイグドラシルの根本で目を覚ました後だ。その時の私は最後の魔王・ルーチェモンを討伐し、どうなったのかすら理解できていなかった。そして……呆然と、する、私にっ、"アイツ"は、告げたんだ――」
 頭を両腕で抱え、ガタガタと震え出すJ。その瞳は確と見開かれ、顔面から嫌と言うほど汗が噴き出している。その尋常でなさに、思わず生唾を飲み込んだ。
「怖かった……怖かったんだよ、ツェーン……! この私が、サタンモードの前に立ってさえ平然としていられたこの私が――"J"という外殻が! いとも容易く引き剥がされた……!」
「お、おい……」
 崩れ落ちる様に椅子から降り、床を這って俺の足下に縋りついた。
「"それ"は語ったよ。私に架せられた義務を……。だが、だがそんなことよりも、奴は言った! 二つの世界を隔てたと! その記憶を全ての人類! 全てのデジタル・モンスターから抹消したと! その事実はイグドラシルのログにすら残っていない! 私と、それを知った君以外には、大いなる理しか知らないことだ!」
 ……正直に言って、衝撃だ。伝聞に過ぎず、きっとJの味わった恐怖の一割も享受できていなかろうが、少なくとも、全生命の記憶に干渉可能な存在がいるということになる。
 それはホストコンピュータ・イグドラシルにも、俺たちリアルワールドにの住人にもしも実在したとして、その唯一神たるYHVHにも不可能な御業だろう。
 その遠大さ、想像もつかぬ途方の無さ。そしてその端末――あるいは触覚だろうか。そうしたものに直面したという彼女の恐怖は、成る程、推し量ることすらおこがましい。
「そうか」
 だから、それだけしか言えなかった。足下の、危うさの塊から目を話すことはできなかったが、それでも一瞬だけ周囲をぐるりと見回し、かけるべき言葉を探した。
「なあ、お前のデジモンはどうしたんだ?」
 せめても話題を変えようとして口にした言葉。だが、この言葉は刃だった。想像した効果を大幅に超越し、確かにJの混乱を収めたが――。
「……消えたよ」
 ――彼女の胸を刺し貫いていた。
「サタンモードを倒したとき以来、一度もその姿を見ていない」


 あれ程不安定な様子を見せたJを一人にする訳にもいかず、その後は普段通りの他愛もない会話をしながら少々気まずい夜を過ごした。俺たちのメンタルはどちらもボロボロだったが、独りでないというだけで、どれ程救いになったことか。
 まな板を包丁がリズミカルに叩く音に目を覚ませば、Jがキッチンに立っていた。 咎める気はなかった。

「やあツェーン、お目覚めかい」
 その姿は二日前に目にしたそれと一切変わらなかった。エプロンの下のセーラー服から覗く喉元が目を惹いた。
「ああ。昨日は……」
「いいのさ。私も君も、お互いに弱いところを見せた。絆が深まったと思おうじゃないか」
「そうか、じゃ、お言葉に甘えて」
「うん、待っていたまえ……ところで、朝食はきちんと採る派だったかな? こうして勝手に調理場を借りてはいるが、私は朝ごはんを『一日の活力』とか『食べないと頭が働かない』とか言う言説には正直辟易するんだが」
「俺も普段はコーヒーか紅茶か翼を授かる奴だよ」
 だが、まあ。自己の足元が揺らぐような夜を共に過ごした俺の感情としては。
「お前が作ってくれたのなら、毒でも飲み干してやるよ……そんな気分だ」
「!」
 Jの顔がこちらを凝視する。
「ツェーン、つつつつまりそれは、これから毎朝味噌汁が私を作ってくれるという――」
「J、日替わりになるの?」
 打たれ弱すぎだろ。というかよくそんな言い回し知ってんな。まあ日本語で創作してるぐらいなんだから当然と言えば当然だが。
「別にそこまでは言ってねえよ」
「なんだと」
「そういう日もある」
「いいかツェーン。今私は君の食事事情を掌握しているんだぞ、分かるか」
「いやされてねーしお前が作らなくたって困らねーけど」
「ぐぬぬぬぬぬ」
 なんて、昨夜の出来事を忘れるかのように下らぬやりとりに興じていると、だ。調理器具とは異なる電子音が家の中に響いた。来客の知らせ。こんな時間に鳴る方が珍しい。
「有~羽ック~~ン、あっそび~~ましょ~~~~!」
 訪問者は一切珍しくなかったが。
 インターホンのカメラに映っていたのは、制服を着崩して赤いマフラーを纏った我が友人・宮里定光だった。朝っぱらからやってくることは、稀によくあることだった。
「私が出よう」
 マジかよ。やめろよ。
 Jは有無を言わせぬ神速の所業でリビングを出た。
「待て待て、落ち着け」
「私は落ち着いているとも」
「いいや、正気じゃないね」
「Amantes amentes――愛は正気にて為らずだよ」
 無い胸張って恥ずかしいこと言ってんじゃねえぞ。
「お、空いてんじゃーん。不用心だ、な……?」
 止めようもないJをどうにか押さえつけようと苦心していると、玄関の扉を勝手に開けて入ってきた。
 俺の住処は、玄関から一直線の廊下を通じてリビングルームが広がっている。リビングとキッチンは併設だ。つまりどうなるか。定光が初めに見るのは、真っ先に部屋を飛び出した、エプロン姿のJとなる。
「なーる。邪魔するぜー」
 すげえ。何も言わねえぞコイツ。
「邪魔するなら帰れ」
「宮里君ね。おはよう」
「おーおはよおはよ。聞いてるぜ、通い妻始めたって」
「家主は無視か」
「ほう、そんなことを」
「一言も言ってねえぞ。つーか、今日は一体どんな厄介ごとを持ってきたコラ」
「おーそうそう。お前が美少女連れ込んでるからビビって言い出し損ねたじゃねえか」
 嘘こけ。全然驚いてなかったじゃねえか。
 そう憤る俺の前で、いやんいやんと頬を両手で挟み身体をくねらせているJにも見えるように、宮里家の息子は鞄から一冊の本を取り出した。


 宮里家は古くから続く名家で、この蛙噛市の開発にも随分と絡んでいたと聞く。その屋敷は広大で、何度か訪れたものの未だにその全容を覚えきれない……探検とかするような年でなかったのもあるが。その財産もかなりのもので、末息子である定光でさえ正直働かずとも食っていける筈だ――それを、あの家の父親が許すかは別にして。まあ家族環境については説明の必要もないだろう。
 さて、定光が厄介ごとを持ってくるのはいつものことだ。昨日のウェンディモンの一件とて、よくよく考えればコイツが日本で発生したウェンディゴ症候群の噂話を持ち掛けてきたのが発端だった。いるのだろう、そういう星の下に生まれた人間は。望むと望まざるに拘らず、行動が騒動に繋がっていく。
 例えば昔、ポマードポマード言いながらげらげら笑いつつ口裂け女をボコったのもコイツが発端だったし、寺生まれのTさんに遭遇しその正体が結局のところ彼の戦うべき怪異と同じ穴の貉であると知ってしまったのもコイツが持ってきた謎の呪物[Fetish]が原因だった。
 今にして思えば、それらもデジタルワールドの関与・影響があったのではないだろうか。現実に存在するはずがないオカルトの実在。俺はよくよく考えればそうしたものに幾度も遭遇しているし、それをチャットでJに面白おかしく話したりもしていた。そしてそれは、摩訶不思議且つ現実的[Real]でないという意味で、デジタルワールドの実在に結びついてもおかしくはない……ような気もする。
 とまあ、何故こんなことをつらつらと回想しているのかというと、だ。
「Hmmm、これはまた珍しいものを入手したようだね」
「名高いJサンにそう言ってもらえるとは光栄ってもんだ」
「J? もしかして我々の関係をご存じ?」
「そりゃもう耳にタコが出来るほど! 『デジタル・モンスター』、こいつタブレットに入れて何度も読み返してるんだぜ」
「なるほど、それは気恥ずかしいね。ところでツェーン、どうも一人だけ置いてけぼりにされたような顔をせずこっちに来たまえ。これが何かわかるかい?」 
 コイツらが手にして盛り上がっている本。それが一冊の魔導書だったからだ。

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