第一話①
広大な敷地を持つ建物の中に、しかしこれでもかと言うほど所狭しと古めかしい本が並べられている。
図書館。嘗て学問の殿堂とも言うべきであった公共の建築物には、当時の面影は余り残されていない。情報技術の発展につれて、文章は次第に液晶の上に活躍の場を移したからだ。この図書館も既に、日本国内に残った最後の一軒である。歴史的に紙媒体で残す価値があると政府が判断した本のみを本棚に並べている。
職員が一人だけ待機している受付カウンターに申し訳程度に設置された検索用のコンピュータには、西暦2200年と記されていた。
西暦2200。育成ゲーム・デジタルモンスターが開発され、忘れ去られてから200年弱。嘗て栄華を誇った電子生命体も、今ではその姿を覚えている者も殆どいない。
「……これを寄贈したいのだが」
静謐な空間でコツコツと足音を立てて、黒服で長身の男がカウンターの前に立つ。
「ああ、はい。書籍の寄贈ですね。承りました、お手数ですが、これにお名前を――」
カウンターに座る職員が用紙を取り出し、男の方へ向かったとき、既に男は忽然と消え去っていた。
後に残されたのは『デジタル・モンスター』と記された古めかしい本が一冊。
「これ、どうしましょうか」
下手に開くとすぐにでもバラバラになってしまいそうな本の表紙をそっとめくる。そこに記されていたのは、未知の電子生命体デジタルモンスタ――通称・デジモン――の生態と、そしてそれを呼び出す手順であった。どうやら、ある種の図鑑のような物らしい。
「……馬鹿馬鹿しい」
ともかく、一端政府の方にこれがここに納める価値のある物かどうか尋ねる必要がある。
「そろそろ交代時間ですし、帰り支度でもしますか」
そう言った職員の女――加賀 佳美(かが よしみ)――は、交代で入ってきた別の職員と入れ違いに自宅へと帰った。ハンドバッグに古めかしい図鑑を忍ばせて。
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加賀 佳美には憎むべき存在がいた。それが己の肉親であるか、それとも元恋人や元友人であるかはこの際関係ない。重要視されるべきは、彼女がこっそりと持ち帰った図鑑――デジモンの召喚書――を用いて、復讐を遂げようとしたことだ。
深夜二時、俗に丑三つ時と呼ばれる時刻、彼女はそっと寝台から抜け出し、コンピュータを起動。ソフトで描いておいた幾何学的な魔法陣のようなものを画面一杯に展開する。
こっそりと持ち帰った本を無造作に開く。そこには、頭部が三つある化け物の解説が、丁寧に図解付きで行われていた。
ページの末尾に付いていた召喚の手順に従って儀式を執り行う。
儀式が最後まで達成されたその時、ディスプレイからの盛大なフラッシュが彼女の目を焼いた。思わず目を腕で覆い隠してしまったので、彼女はそこからぬるりと現れた巨大な顎が自分に迫っていることに気付けなかった。
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曾呂 紋次(そうろ あやじ)は私立の名門校――県内でも上から数えた方が速い程度には名門である――に通う一人暮らしの高校生である。老朽化したプラスチック製の小箱のようなものを実家の倉庫から発見し、それ以来ボタンの三つ付いたそれを腰に付けている。因みにこの小箱は、嘗て流行した育成ゲーム『デジタルモンスター』のドックである。
また、曾呂 紋次と先程の加賀 佳美はちょっとした顔見知りである。住んでいるマンションの上下階であると言うだけの知り合いのため、すれ違い様に挨拶をするだけの関係ではあるが。
時刻は深夜2時。丁度紋次の真上の部屋で、佳美が三首の獣――デルタモン――召還の儀を行っていた時である。高校三年にして受験を半年後に控えた彼は、日常的な習慣としてこの時間まで受験勉強に勤しんでいる。志望大学の過去問を一回分解き終わり、就寝の準備にかかろうとしていた彼を襲ったのは、始めに聞いた者を震え上がらせるような雄叫び。次に、衝撃が天井と共に襲いかかる。
「――ッ。一体何が……」
瓦礫から身を守り、床に手を突いて立ち上がった紋次が目にしたのは一体の化け物。怪獣のような容姿、そして本来腕があるべきところには機械と骨の頭部が気味悪く蠢いている。状況を把握しきれない頭でもって、状況を把握するため周囲を見渡す。紋次の目に新たに入った異物は、首から上を失った人間の姿であった。その人型が、加賀 佳美のものであったと紋次郎が知る由もない。何よりも、今の彼にとって最も大切なことは、この状況から生き延びることだ。
「何だ、何なんだよこいつは!幻覚かなんかか!?」
悲痛な叫びは届かない。異形の獣は彼をその双眸に捉えると、骨製の腕が今にも紋次郎に喰らい付かんとする。
「おい止めろ!話せば分かるCOOLになれ!」
錯乱しているためか、紋次の言動がおかしなものになっている。阿呆なことを言っている間にも、凶顎は迫る。
屈み込むことで辛くも直線上に喰らい付いてきた顎からは逃れることが出来た。しかし勿論それだけで彼の受難が終わることはない。そしてそのことは、他ならぬ紋次自身が重々承知していた。
何かないのか、この状況を打破できる何かは――と、必死に辺りを見渡すと、ふと彼の目に先程三つ首の化け物、そして首のない女とともに落ちてきた一冊の本が映り込む。
「あれか!」
根拠はない。あの本が何らかの打開策のきっかけとなるという無責任な自信があった。件の本は自分の後ろにある。ならば、己が採る行動は決まっている。
「クソったれ!」
なりふり構わず、口汚く罵ることで己を鼓舞して、紋次は唐突に後方に跳んだ。貧弱な獲物が予想外の動きを見せたことで、三つ首の化け物は狼狽を露わにする。頭からスライディングするようにして本を掴む。
『本』というものの実物を見た事はないが、知識は持っている。そのためどうやってそれを扱うかも、彼には大体分っていた。彼が開いたページは、『メタルグレイモン』の生態が記されたページであった。
ページを開いた途端、紋次の頭の中にイメージが浮かぶ。青色の皮膚がまばらに見える機械の身体を持った、目の前にいるのとは違う『化け物(モンスター)』。
「我が呼びかけに応じ顕現(リアライズ)せよ――メタルグレイモン!」
同時に頭に浮かんできた言葉をそのまま口にする。その名を聞いた途端、落ち着きを取り戻し始めていた三つ首の化け物が再び狼狽する。
刹那、天井と共に落ちてきたコンピュータのディスプレイから、目映い光がその場の計八つの目を焼く。光と共に、半身が機械化された竜が現れるのを直接目に焼き付ける事の出来る者はいなかった。
「まさか今の世に、ドック持ちの召喚を受けるとはな……久し振りに楽しくなりそうだ」
紋次の腰にアクセサリとして吊されたドックを見て、ニヤリと笑うメタルグレイモン。
「お前が俺を呼んだのか?」
言って、デルタモンを一瞥して再び紋次に視線を移すも、すぐに首を横に振る。「聞くまでもなかったな」と肩を竦めたメタルグレイモンは、自信に満ち溢れた笑みを浮かべる。
「この場は俺が切り抜けてやる。怪我しないように俺の後ろに隠れてな、テイマーさんよ」
まともな精神の持ち主ならこの場でメタルグレイモンの言うことに従うことはなかっただろうし、紋次もまた、自分を『まともな精神』の持ち主であると自負している。そんな彼が言葉に従ったのは、メタルグレイモンが味方に思えたからではなく、メタルグレイモンの言葉に彼自身もよく分からない安心感を覚えたからだ。勿論、何から何まで理解できた訳ではないが。
「よう、デルタモン。まさかお前までこっちに来てるとは思わなかったぜ」
「……何故、まともな召喚の儀式も無しに完全体がリアライズできる」
メタルグレイモンの気さくな――とは言っても、その問いはどちらかと言えば詰問に近かったが――問いかけに、デルタモンはそれまでの暴れ様からは想像も出来ないほどの冷静さでもって返す。
「さて、な。強いて言えば、俺とこのテイマーさんとの相性が、例を見ないほどに良かったからじゃないのか?」
「抜かせ。大方、先にその小僧とパートナー関係を結んでいたのだろう」
「ハン、分からねえ奴だな。今呼び出されたばっかりだってのは、誰が見ても分るだろうが」
「……まあ良い。どの道、お前とここで対面するのは中々に宜しくない展開だ」
「だったら、どうするってンだ?」
こうするまでさ――と、デルタモンはその両腕を振り上げて床に叩き付ける。二体のデジモンの存在で既に悲鳴を上げかけていた床は無残にも打ち砕かれ、彼のいた場所を中心に崩壊を始める。
「考えたな……どれ、俺に掴まれ。悪いな、他の人間の命までは保証できそうにない」
言われた紋次は何処か冷静なまま動転しているの頭のまま、頷いてメタルグレイモンの背に掴まる。
行くぞ――の言葉と共に、メタルグレイモンが左腕を振り上げつつボロボロの翼を羽ばたかせる。
一度。二度。三度――羽ばたく度に、周囲の風圧が上がっていく。床の崩壊が風圧で進行しているが、メタルグレイモンは気にも留めず羽ばたきを強める。
羽ばたきの回数が二桁に達したとき、メタルグレイモンの巨大が浮き上がった。見るからに役割を果たせなさそうな翼ではあれど、十分に飛行能力は有している。
「落ちんなよッ!」
機械製の左腕の爪で天井を破壊しながら上昇、10階建てマンションの四階にある紋次の部屋――今はデルタモンが落ちてきた時の影響で四~五階とするべきなのだろうか――ひいては二体のデジモンの行動で倒壊するマンション内部から脱出、上空で静止する。
「――ッ!これは……」
「本当に無茶する奴だ。他の人間は恐らく御陀仏だろうな」
自分達の真下に瓦礫の山が形成されている。二体のデジモンが暴れた結果だ。メタルグレイモンの予想通り、このマンションの住人は紋次以外死亡していたことが後に判明する。尤も、マンションの倒壊にはデルタモンだけでなくメタルグレイモンも一役買っているのだが。
上空から見下ろせば、瓦礫から這い出たデルタモンが小さく見える。かなり距離があるため紋次にはよく見えなかったが、メタルグレイモンの目はデルタモンがその三つの口から熱線を放たんと構えるのをしっかりと捉えていた。
「おいおい……こんな場所でトリプレックスフォースかよ」
「?どういうことだ?」
メタルグレイモンの背中に乗っている紋次には自分でもよく分からない安心感を感じていた。そのためか、マンションを一瞬にして倒壊させる程のモンスターに話しかけるのも厭わなかった。
「ん?ああ、分からねえか。確かに、お前はどう見ても新米テイマーだもんな」
うんうんと頷く。勿論、トリプレックスフォースへの警戒は解かないが。
「――こういう技さ!」
デルタモンの放った三本の熱線が、絡み合いながらメタルグレイモンに迫る。狙いは無慈悲なまでに正確。しかしその威力ではメタルグレイモンのボディに傷一つ付けることは叶わない。
左腕を胸の前に置くことで、三倍の太さになった熱線をいとも簡単に四散させる。
「もう一回派手な動きをする。落ちないように捕まってな!」
メタルグレイモンに妙な信頼を寄せていた紋次は、躊躇いもなくその髪に捕まる。 紋次が落ちないようなポジションを問ったと確認したメタルグレイモンは、頭からデルタモンに突っ込むようにして急降下する。
左腕のトライデントアームでデルタモンを防御のために振り上げた機械の腕ごと真っ二つに切り裂く――致命傷だ。無理に現実世界にリアライズしていたデータが、粒子となって傷口から流れ出て行く。
「ハン、大人しくしとけば良かったのにな」
「……完全体にロードされる最後も悪くはあるまい。私は貴様の血肉となって生き続けるということだからな」
傷口から流れ出た粒子はメタルグレイモンに吸収されていく。ロード――デジモンが他のデジモンとの戦いに勝利した際、敵を己の血肉とする行為だ。
始めてみるデジモンの戦い、そしてロードの神秘的な光景に、メタルグレイモンの背に乗っている紋次は思わず見とれてしまっていた。
「悪かったな。お前は被害者だろうに」
「え?」
メタルグレイモンの謝罪の言葉で現実に引き戻される。
「何とかしてやる、って言っておきながら、人間一人しか守れなかった。勿論、召喚されたデジモンからすればテイマーを守るのが最優先事項だから俺自身は気にしないが、急にテイマーになったお前には――」
メタルグレイモンがそこまで語ったところで、別の人物――言わずもがな紋次ではない――が話って入る。
「――間に合わなかったか」
夜に溶け込むような低めの声の主は痩せ形で長身の男。全身が黒ずくめであり、銀縁の眼鏡が唯一、月明かりを反射して輝いていた。
「誰だ、あんた?」
「私の名前はこの際どうでも良い。おっと、礼儀がどうのと言わないで貰おうか、今は急ぐのでね。リアライズ!――ムゲンドラモン!」
男の呼び声に応じて、彼が首から下げていた黒い『ペンデュラム』から光が放たれる。
「全く、デジモン遣いが荒いことだな」
闇夜に愚痴を漏らしつつ現れたのは、フルメタルの竜型デジモン。ロードした五体の機械型完全体デジモンのパーツを組み合わせて作られた合成デジモン。
その圧倒的存在感に紋次は気圧され、メタルグレイモンは究極体の登場に「げ」と呟きを漏らす。
「何故一介の高校生があの本を手に入れられたか分からないが、見て分かっただろう。彼等の力は世界を滅亡させるのも容易い力だ。
故に、メタルグレイモンを削除(デリート)、その本を回収し、デジモンの秘匿のため、君には死んで貰――」
「――逃げるぞ!」
男の台詞の終わりを待たず、メタルグレイモンは紋次を背中に乗せたまま飛び出しだ。
「ムゲンドラモン!逃がすな!」
背中のブースタを起動させることで加速、瞬く間にムゲンドラモンはメタルグレイモンに接近、尾を掴んで地面に叩き付けた。メタルグレイモンは腹から地面に叩きつけられ、紋次はその反動で背から投げ出される。
男が耳障りな足音を立てて紋次に近寄り、襟元を掴んで無理矢理に立ち上がらせる。
「あの本は何処にある」
「……あの瓦礫の中だ」
本は紋次が意識していなかった内に手元から離れていた。それを聞いた男はムゲンドラモンの下へ戻り、眼鏡を中指で上げムゲンドラモンに指示を出す。
「ムゲンキャノンだ。まずはこいつ等を、次はあの瓦礫の山を抹消しろ。あの本はそれでどうにかなるほど柔じゃないから、回収は後でも良いだろう」
指示を受けたムゲンドラモンは、手始めに、尾を掴んで動きを拘束していたメタルグレイモンに照準を定める。
エネルギーの固まりが砲に充填される。ムゲンキャノンもまた、デルタモンのトリプレックスフォースと同様熱戦を打ち出す技だが、威力はそれとは比べものにならない。
メタルグレイモンも飽くまで抵抗を諦めず、体を捻って胸のハッチをムゲンドラモンに向け、己が必殺技のギガデストロイヤーを放つ。しかし究極体の強靭なボディには傷一つ付けられない。
それはあたかも、デルタモンがメタルグレイモンにダメージを負わせられなかった先刻の再現だった。
「メタルグレイモンッ!」
「『ムゲン・キャノン』ッ!」
紋次がメタルグレイモンの名を叫んだのと、エネルギーの充填を終えたムゲンキャノンが放たれたのはほぼ同時。
「終わりだな」
余りに圧倒的な攻撃力の熱線が辺りを照らした。