ChapterⅠ -The Lust-
時は世紀末ーーを遙か昔に通り越して21XX年、技術革新とその浸透により、全人類の集合的無意識に『デジタル世界』という概念が植え付けられた頃。それらはひっそりと産声を上げた。
デジタル・モンスター。人類が普遍的に抱いていた神魔ないし怪物を象った生命。出自は定かではないが、あらゆる方面へ事業を展開していた『B.E.E.L』という会社の社長ーーその正体は無価値の名を持つ堕天使を模したデジタル・モンスターであったーーそれが、人類がデジタル・モンスターを観測した最初の例だと言われている。
そして現在、堕天使ベリアルを模したモンスター・自称『ベリアルヴァンデモン』が観測されて以降、デジタル・モンスターは着実にその数を増殖させていった。その方法は不明。その総数も不明。その能力も不明。何一つデジタル・モンスターについての理解を深められていない人類の中に潜みながら、彼らは着実に世界に浸透し始めていた。
○○○○○
一寸先は闇、という言葉がある。それはあくまで比喩適評源に用いられるだけの筈だが、現状では端的すぎるほど端的に実状を表していた。
前後不覚。右も左もわからず自分の指先さえ足場もおぼつかないような闇。しかし"ある"と思って闇と向き合えばそこに地面も方向も存在する。
俺は前へ向かって歩みを進める。闇の中ある種の確信めいた何かを胸の裡に。そこに自分の意志は関係なく。しかし本当に自分の意志が関与していのかすらも分からない。単に自分で選択してその事実を忘れているだけなのかもしれないという疑念が常に付き纏う。
しばらく盲目的に足を動かし、唐突に思い至る。俺は眠らなくてはならない、と。
眠りを訴える自分の心とは裏腹に、足だけは追い立てられるように動き続ける。じきに明滅する死に掛けた蛍のような光が目に入る。光が視界に入ったと思った次の瞬間、目の前が闇の黒と唐突に現れた白い光で埋め尽くされて明滅を繰り返す。俺は思わず目を閉じて心地よい闇が再び自分を包み込んでくれるのを待った。
辺りがほの暗くなったところで目を開くと、山羊の頭部を象った意匠の施された十字架と、そこに鎖で雁字搦めに磔られた女が認識できた。この場を形成する闇は十字架から、光は女から出ているように感じられた。よく見ると十字架からは三対の蝙蝠の羽根が生えており、それはまるで磔られた白い――肌も、髪も全体的に白い――女から生えているようにも見えて。
そのミスマッチさに、しかし俺はどうとも思うことはなかった。ただ、ひたすらにこの場に倒れ伏して眠りたいとだけ思っていた。頭の中は惰眠を貪ろうとすることで一杯で、しかし状況は俺の入眠を許してはくれなかった。
捻れて回転して上下に激しく振れた後、目の前の光景は一転、コミカルで巨大なぬいぐるみのようなモノが現れた。ぼんやりとした眼でそれを見つめていると、いつ変わったのか、ぬいぐるみの腕は毛深く獰猛さを滲ませるものに変わっていて。
本来ならば奇怪な出来事に脳味噌が理性を鳴らすのだろうが。
ぬいぐるみはやすらかな寝息を立てながらその太い腕を振りあげて。
俺は眠気と脱力間に抗いきれず後ろを振り向くこともなく。
剛腕の先端の鋭利な爪は俺に狙いを定めていて。
回避行動を取る間もなく、俺は右腕を失った。断面から飛び散る砂塵のようなものを見つめながら、眠気からか失血からか、俺は意識を手放した。
○○○○○
「ヅ――、あっ、ハッ」
鳥の声が聞こえるなんて有り得ないほどにけたたましく鳴り響く携帯のアラームを止めて、そこに表示された文字列を見ることなくその辺に放り投げて右腕の切断(されたと思しき)部を押さえる。
またしてもこの夢だ。右腕に痛みが残っているような気はしないし、オカルトでよくあるような聖痕が出てきたりはしないのだが、近頃は毎朝この夢で目覚める。眠った気がしなくて――まあ実際それほど休めてはいないのだろう――昼間ずっと眠いと言うことを除けば、別段なんてことはない。余地夢だとか天啓だとか、確かにそんなものは存在していても構わないが――俺はそんなもの別段望んじゃいないし。
何と言うべきか、俺は所詮そんな不思議ちっくなマジカルぱぅあーのある世界の住人じゃないし、自分でもそうだと思っている。どちらかと言えば、大人しく青春ラヴコメでも謳歌していたいと思う方だし、強いて言えばダーティなスパイアクションか何かの方がいいだろう。そういうのは先輩に――。
「あ、やべ……」
そんな風に取り留めもないことを考えて5分ほどたったろうか。脳裏に一人の女性の姿が浮かぶ。それと同時に部屋の呼び鈴が鳴って――いや、鳴りまくった。
「はいはい、今出ますよ」
取りあえず寝間着からは着替えてドアを開ける。やまないピンポン連打で俺を出迎えたのは高原 彩利(たかはら さいり)。ドイツから日本に帰化した数少ない俺の友人の一人であり先輩。同じアパートに住んでいるということもあり、結構親密な付き合いをさせて貰っている。偶然にも俺と先輩の両親は知己だったらしく、互いに助け合うように言い含められていたりもする。結構な――というか、大学のミスコンなんか出たら一位は確実であろうという顔立ちだし、性格とか才能とかを除けば、俺自身結構な役得だとも思っている。まあ現状一方的に助けられてばかりいるような気もするが。
「おはよう。後輩君」
「おはよーございます先輩」
ホワイトブロンドとでも呼ぶべきであろう眉がつり上がっている。さっき携帯の画面に表示された文字をきちんとみていなかったのが悔やまれる。
「それで?何か申し開きはあるかね」
「弁解のしようもありません」
今日は先輩が朝飯を作ってくれるということで、7時半までには鍵を開けて待っていろ、という話だった。知ってる。それは知ってる。時計はまだ7時25分なのだが。
「まあよかろう。ほら、台所を貸せ」
今日は平日で大学もあるが、後1時間ちょっとある。結構ゆっくりする時間はあるだろうし、大人しく食卓で待たせて貰うとしよう。
「はいはい。じゃ俺は適当に待たせて貰いますね」
ほどなくして朝食が運ばれてくる。トーストにハムエッグにサラダ。あと余り物か何かを挟んで作られたであろうミニサンドイッチ。なるほど。
「あんたドイツ人でしょーが」
「えげれす食も朝食なら許せる。そういう話だ」
「いやあ俺は許せませんね。ウナギゼリーでも食ってろっていうか?むしろフィッシュアンドチップスだけこっちに輸出してろよ的な?」
「所詮あんな島国に住んでるような英国紳士気取ってる奴らだからな。知ってるか?日本人とイギリス人は駅でぶつかった時に自分から謝るが、イギリス人はそもそも避けようとはしないらしいぞ。日本人の奥ゆかしさが分かるな」
「隣国ディス凄いですね」
「それほどでもにい」
適当に無駄話をしつつ適当に朝飯を取りつつ適当にニュースでも流していると、よく知る市の名前が聞こえてきた。
京都府香山市。俺達の暮らす町で、まあ京都といってもそれほどめぼしい何かがあるわけでもないこの町。程良くアミューズメントパークもあればルーブルを模したような美術館などもあり、唯一の観光名所としてちょっと大きな神社があるぐらい。
そんな自分の町の名前が聞こえてきたら耳を傾けるのはまあ、当然の反応で。それで余り飯時に聞くべきではない話を聞いてしまったのは失敗だった。
「腐乱死体、ね。まったく、食事時に聞く話ではないな」
「すいませんね、気が利かなくて。ただまあ、俺らの通学路みたいなもんですし、今日は通らない方がいいですかね」
このアパートから大学までの20分ほどの道のりで、その丁度中間ぐらいにある公園。そこで昨夜、腐乱死体が発見された、と。
『不可解なことに、発見された藤也 悟(ふじや さとる)氏は昨日まで目撃されており、死体の腐敗が一晩で進んだにしては早すぎる、との事です』
別に死体が出てくるぐらい、多分俺も先輩もどうとも思わないだろうが、そんな不思議現象が起こっているんだったら俺は極力避けたい。だが、先輩はこういうのが大好きで、結構オカルト本とかも真面目に読んでる。途中で寄ってみるぞ、とか言われないよう機先を制した俺にジト目を向けてから、先輩は言い放った。
「……ま、そうだな。後輩が女性を守るナイトに成りたくないと言うなら、我慢してやるとしよう。……男の夢だと聞いたがな?」
「そういうのいいんで。ってかアンタ、俺より強いでしょうが」
それもその筈、この先輩、細い成りしてムエタイやら八極拳やら色々手を出しているのだから。俺なんかが敵うわけもない。
○○○○○
「真原 針斗(しなばら はりと)ー」
「はい」
大学に着いて先輩と別れ、一限の点呼を終えて90分ほど暇な時間が訪れる。まあ普段から真面目に講義を聴いてるわけでもないが最近は例の悪夢のせいで格別眠い。そういえば、あの張り付けにされてた女はどことなく先輩に似てた様な……主に白っぽさが。マジか。俺夢に見るほど先輩にゾッコンだったのか。よっしゃ帰ったらアタックしよう。
『おう針斗、遊び行かね?来んなら15分以内に裏門な。別に来なくても一人で行くけど』
そんな風に一人でアホな決意――まあ悪夢の事なんて目覚めて1・2時間すれば忘れる――を固めていると携帯が震えた。差出人は別の講義を受けているはずの渡部 桐彦(わたべ きりひこ)。俺の数少ない友人の最後の一人であり、メールの内容から察せられるように真面目とは無縁の男。一時期は真面目だったのにどうした事やら。
このまま眠って若い身空の一時間半を無駄にするのも癪だった俺は出欠の確認が全員分終わった頃を見計らって後ろの方から講義質を退室。そのまま裏門までメールを返信しながら歩いていく。
裏門の柱にもたれ掛かって待っていたのが俺の――まあ、悪友。ピアスやらのいかにもなシルバーに、煙草なんてくわえた明らかにチンピラと言って差し支えない風貌。そのアッパーなテンションも相まってか、どうやら俺と先輩以外に大学では友達がいないらしい。はいそこ『人のこと言えない』とか言わない。まあもっとも、一時期ゾクの頭っぽいこともやっていたらしいが。
「おう、来たかい針斗。今朝もおアツかったんだって?」
「うるせーよバカ。そしてチンピラ。てめえ朝っぱらから講義さぼってんじゃねえぞ。あと俺今日帰ったら先輩に告白します」
「ヒョーウそいつは結構!針斗クンの次の挑戦に期待してください!ってか最早通い妻だししてねえ訳じゃねえだろ後そのバカに付き合ってサボってるお前だってバカだろバーカ」
「俺は要領良いから許されるんですーぅ。まあお前も同じ様なもんだしそもそも付き合ってるしなフハハハその辺の衆愚共の嫉妬の視線が心地良いぜ」
「んで何でいきなり告白するとか言い出したのよ」
「あー何でだっけ。そうそう最近よく同じ夢ばっか見るって話ししたじゃん?そこに出てくる女が何か先輩の様な気がして『あれ……この気持ち、もしかして、恋?』ってなった訳よ。トゥンクかっこハートみたいな感じ?」
「ファーーまじかよ針斗お前それ運命の赤い糸とか結ばれてる系じゃね?」
「オカルトとかファンタジー嫌いだけどさ、俺、この運命だけは信じてみたいんだ……どうよこれ?それっぽくね?」
「やべえやべえ超青春してるわお前クサいわ寒いわむしろ熱いわ」
「まあそれはそれとしてどこ行くんだよ」
平日の朝っぱらから大声で騒ぎながら往来の(別に往来ないけど)ど真ん中を歩くまさにDQNど真ん中な行動を取りつつこれからの方針を相談する。桐彦はタバコを吐きつつ少しばかり思案して見せた。
「あー?特に決めてねえけど……まだ9時だし、1時間ぐらいその辺で暇潰してゲーセンでも行く?んで昼飯食ってカラオケにでも」
「オーライ。じゃあその辺の本屋で立ち読みでも――」
「――失礼。急いでいたもので」
本屋に向かって方向を変えようとした時、壮年の男に肩をぶつけられた。その後の言葉遣いは慇懃だったが、一瞬こちらを観察しているようにも見えた上、通り過ぎた後どうにも"気持ち悪い"という印象を受けた。清廉潔白とでも言うのだろうか。必要以上に潔癖で、常に己を律しているようなそんな感じは、そのピンと伸ばされた背筋からも見て取れた。
「んだ、今の……悪ぃ、遊ぶ様な気分じゃなくなっちまった。今日は帰るわ」
同じ様な印象を抱いたのだろうか。桐彦も渋面を浮かべていた。
結局その場はお流れとなり、大学に戻るのも面倒になった俺はそのまま家に戻って二度寝を決め込むことにした。さっきは青春の無駄遣い的なことを言ったが、まあ家でキチンと寝るならそれは有効な利用法だろう。二度寝人生最大の快楽と言っても過言ではないし、そもそもまるであの夢の中の俺の様に眠くて仕方がない。家に帰った俺はそのままベッドに倒れ込み意識を手放した。
○○○○○
ひたすらに空腹だった。俺は依然として眠気を抱えたままであったが空腹に耐えかねて寝床から跳ね起きた。
――足りない。満たされない。
――この身を蝕む倦怠感を押して動かねばならぬ程。
――我は偉大なるモアブの神。
冷蔵庫には目もくれず俺は家を出た。その瞬間、これがいつもの悪夢とはまた違う夢であると気付いた。俗に言う明晰夢と言うものか。周囲の光景は見慣れたもので時計が正しい時間を示さない以外は別段おかしなところはない。とはいえ気付いたものの俺の行動に俺の意志は介在せず、例の腐乱死体が発見された公園を素通りし、さらにその先の美術館へと向かう。空から判断するに黄昏時、アフターファイブであろうにすれ違うような相手は誰もおらず、ただ俺の影だけが長く地面に伸びていた。
――我は渇いたり。我は飢えたり。
――不自由な足を動かし供物を求むる。
――我は偉大なるモアブの神。
やめろ。行くな。行けば俺は止まれない。脳味噌はそう警鐘を鳴らすが歩みは止まらない。美術館に足を踏み入れると、窓から見えた空の色が暗転した。一際大きな絵が飾ってあるホールでは、その絵を見つめている女がいて。そしてその女は俺に気付いていなくて。失われた筈の俺の右腕は何故か毛深い剛腕になっていて。腕はその指の先の剛爪で、無防備な柔肉を切り裂いた。
――肉を求めたり。欲を求めたり。
――凶爪は肉を裂き罪科は我が礎と化す。
――我は偉大なるモアブの神。
俺は殺した女の死骸を踏みにじり消滅させると、女の見ていた絵画に向き合った。便器に座った山羊頭の醜男が顔だけこちらを向いている絵。
『――我は偉大なるモアブの神』
唐突に耳に入ってきた甲高い声に顔を顰める。絵の中の醜男が口元を歪めたと思うと、次の瞬間には見目麗しい女に変わっていた。
そしてその姿は、俺の先輩、高原 彩利その人と瓜二つであった。
○○○○○
「おい、後輩。後輩。起ーきーろ」
先輩の呼び声で夢の内から引き戻される。まさか鍵も閉めないまま寝てしまっていたとは思わなかった。見れば周囲は明るく、しかし時計を見ると午前8時。ほぼ丸一日寝ていたことになり、我ながらどれほど睡眠不足だったのかと戦慄を覚える。
「何ですか先輩。おはようございます」
「ああ、良かった。起きたか。いや何、昨日から音沙汰無くて心配してたんだよ。ベル鳴らしても反応がないから、鍵も開いてたし入らせてもらった」
だからって男の部屋に無断で侵入するというのは如何なものか。近しい者であるとは言え先輩のモラルに一抹の不安を覚える。
「……どうも心配お掛けしたみたいで」
しかし心配してくれていたのは本当なのだろう。先輩の表情には深い安堵が見られる。そこまで心配してもらえると、やはり嬉しくて頬が緩んでしまう。
「何だ、何を笑ってるんだ」
結局訳の分からない夢ではあったが、まさか明晰夢の中でまで先輩のことを夢に見るとは思わなかった。どうせだしここでちょっとアプローチをかけてみようと言う、そんなイタズラ心が芽生えた。その裏にある悪夢への恐怖に、俺自身が気付けていたかは定かではないが。
「いや、先輩が俺のことをそこまで思ってくれてたことに吃驚しまして」
「なっ」
「吃驚って言うより、素直に嬉しいですね」
「ちょ、ちょ。今日はどうしたんだいきなり」
頬を染めるとまではいかないが当惑する先輩。正直言おう。可愛い(確信)。暫くそうして先輩をからかっていたが、我ながららしくないとも思う。昨日桐彦にはああ言ったものの、不可解にも程がある。そしてそれは、目の前の彼女にとってもどうやら同じであったらしく。
「……しかし、どうした?お前らしくもない。何かあるなら、言ってくれよ?」
見透かされているかのような気分に陥る、そんな深い碧眼が俺を覗き込んでくる。それを覗き返すと、何故か心が安らいだ。他人の心が覗ける訳ではないが、しかしこれほど深刻そうな表情を向けられてその真剣さに気付けぬ程俺は蒙昧ではないつもりだ。これ以上軽口で彼女を――いや、彼女と俺自身を煙に巻くべきではないと、そう感じた。
「……いえ、何でも。寝ぼけていたのかもしれませんね」
だけどそこまでの決心が出来るという訳でもなく。だから俺はこう言った。
「寝ぼける、だと?あんなに魘されていたのに、信じられると思うか?」
魘されていたところを見られてしまったことは確かに恥だが、だからと言って"悪夢を見て心細かったところに先輩が居てくれて嬉しかったんです"やら"このところ夢の中に先輩が出てきて恋心を自覚しました"やら、言える筈がない。まあ片方は自覚していない内容だったが。
「まあ、心配かけてすみませんでした。この通り俺は元気ですんで、着替えたいし一回部屋を出てもらえますか?」
「いや、待てお前――」
引き下がりそうにない先輩を無理矢理にでも押し出し、速やかに着替えと洗顔を済ませる。しかし鏡を見た途端、俺の右腕に違和感を覚える。毛深く変質した鏡の中の右腕は、しかし一瞬で普通の腕にすり替わった。そして同時に、肉を引き裂いた嫌な感覚が蘇った。夢の中では何も思わなかったが、その感触は日本に暮らす若造が感じて平気でいられるようなものではなく。
「うっ、ゲ、ぇ――」
俺はその場に蹲るように倒れ込み、中身の殆ど無い嘔吐物を辛うじて掴んだ洗面器にぶちまけた。倒れる際に大きく音を立ててしまったらしく、「どうした!?入るぞ!?」という先輩の声が聞こえた。
「ちょ、待って――」
「――大丈夫か!?」
勢い良く洗面所の扉を開けた先輩は、立ちこめる胃液の臭いに一瞬だけ顔を顰め、しかし直ぐに俺の背を摩ってくれた。
「違、違うんです先輩。これは――」
「大丈夫。大丈夫だ。このくらい何とも思わん。落ち着いたら口を濯げ」
流石に吐いてる所を見られるのは情けなく、動転して舌も上手く回らない。他の人間が動転していると逆に冷静になると言うアレなのだろうか、先輩はそんな俺に冷静に水を差し出した。
「――病気か?」
呼吸を整えてうがいを済ませたところを見計らって、先輩が問うてきた。
「違う――と思います」
むしろ心的な問題だろう。睡眠不足以外、健康状態に異常はないのは分かっている。
「ならいいが――まあ、お前が話してくれるまで待つとしようか。しかし、そんな風になるなんておかしいぞ。今日は一日休め」
どうにも心因性のものであろうということも見抜かれていそうだが、少なくとも今日は出歩かない方がいいというのはその通りだろう。この状況で動き回るなんておかしな話ではある。先輩が大学に行ってからの話ではあるが
、精神病院の受診でも考慮に入れるべきかもしれない。
「ええ、そうします。ご迷惑お掛けしまして」
「構わんさ。夕方までには帰ってきてやるから安静にしておけ」
それだけ言いながら、先輩は洗面器を片付けて踵を返した。先輩を見送って適当に横になるが、しかし24時間近く寝ていたこともあり正直眠気は飛んでいる。積んである小説を手に取って読んでいたが、30分としない内にインターホンが鳴った。扉を開けてみればそれは桐彦で。
「よう。聞いたぜ針斗。何かやべえんだってな?彩利先輩が心配してたぜ?いっつも『毒にしかならない』とか言ってる俺のことを寄越すぐらいに」
「お前か。別に大したことじゃねえよ。ちょっと気分悪くなっただけだ」
そんなことを言いながら勝手にテレビをつけて持ってきた菓子を開け始める桐彦。俺は台所からグラスを二つ持って行こうとして、流れたニュースに絶句した。
「ちょっと待て。二つ前の番組、ニュースだ」
「あ、何よ?」
ザッピングの手を取めこちらを訝しげに見てくるが、俺の目はテレビに釘付けになっていた。そのニュースでは『美術館』で『女性』が『首を切られ』て死んでいたという話だった。
「物騒な話だなぁオイ。どんな事態だよ――ってンだそんな蒼白な顔して?美術館に何かあンのか?ひょっとして知り合い?」
余りにも夢での状況と似通っていて、暫く何も返答できなかった。信じ難いと言うべきか。俺の人生にこんなイベントは欲しくなかった。
「なあ桐彦。美術館までバイク出せるか?」
もしかしたら、アレは夢などではなく、現実だったのかもしれない。俺は右腕を奪われ、新しい化け物の腕で誰かをを殺めてしまったのかもしれない。そうでなくとも、少なくとも何らかの余地夢の様な何かであったと考えるべきだ。あり得ない話ではあるし、普段の俺なら馬鹿馬鹿しいと一蹴していた話ではある。しかし、先程の幻覚や夢との類似点を考えると、そんなふざけた幻想が現実であると、その可能性を考慮しなくてはならないだろう。
「あ?まあいいけど――何だあれか?察するにお前のその表情の原因がそこにある訳だな?」
否定も肯定もする間もなく、桐彦は勝手に自分一人で納得してどこかに電話をかけている。
「ああ俺だ。ちょっとお前今美術館周辺の奴ら集めて騒ぎ起こせ。居んだろ?警察とか野次馬とか。暫く注意引きつけとけ」
一方的に向こうの相手に指示を出して電話を切り、桐彦は俺にさっさと行くぞと訴えかけてくる。そもそも今コイツはどんな立場にいるのだろうか。
「悪い。頼むわ」
「いいってことよ。保って1時間ちょいだ。さっさと行こうぜ」
一抹の不気味さを覚えながら、俺は桐彦のバイクに乗って美術館に向かった。
○○○○○
「んじゃな……頑張れよ?」
「どういう意味だか知らねえけど、ありがとよ」
バイクで移動すること10分。俺は美術館の中へ、桐彦は警察の陽動をしている仲間の所へと別れた。余り詮索されなかったのはいいが、勝手に納得されると何か見透かされているようでいい気はしない。
立ち入り禁止のテープが張ってあったが構わず乗り越える。館内に足を踏み入れたことは無かったが、夢で見た通りの内装が待ち構えており、どちらに行けば例の現場に辿り着けるのかも理解していた。
「これか……」
遺体こそ回収され白いテープがその跡を示しているだけだったが、そこには一際大きな絵画が飾ってあり、漂う血の香を――血の臭いなんてそう嗅いだことはないのに――俺は紛れも無く依然嗅いだことがあると認識していた。そしてその既知感に捕らわれていた俺は。
「やはり来たわね。ベルフェゴール」
「――誰だ、あんた」
「餌の臭いを漂わせれば目覚めると思っていたわ」
人の居なくなったこのホールに響く足音に気付けなかった。足音の主は遊女の様な衣装に身を包んだ化粧の濃い女。女が現れた途端、辺りに立ち籠める血の臭いは腐臭に変わった。
「私が何者かは、貴方なら分かるはずじゃなくて?それとも――」
腐臭を漂わせるその女は、瞬時に背中から羽根を生やし、その右腕を俺に向かって突き出してきた。
「――まだ、寝ぼけているのかしら!?」
「テメェ、何を――!?」
身を翻して避けたが、背後から焦げた臭いがして振り向くと、巨大な爪が刺さった壁面がボロボロと崩れ落ちていた――まるで腐り落ちるかの様に。
「成程。公園の腐乱死体はあんたの仕業か」
恐らく、あの爪に触れられたものは何であれ腐り落ちるのだろう。人間であれ無機物であれ。
「ええ。言ったじゃない。餌を撒けば貴方が目覚める、ってね?」
「餌?目覚める?何を言って――」
「茶番はさっさと終わらせましょう?待ちきれないのよ、私!」
もう一度刺突が放たれる。視認して回避するのが精一杯の速度ではあるが、今度は爪のない左腕。これなら避けられる――そう思った矢先、女の腕がぐねりと曲がって俺の鳩尾を打った。信じられないような衝撃を受けて、俺の体は反対方向の壁へと突っ込んでいく。体内の空気を全て吐き出すような感覚で、寧ろどうして全身の骨が折れていないのか不思議に思う程だった。痛みで脳裏と視界にノイズが走るが、女は今度は右腕を前に突き出しながら突っ込んで来ていた。
あれに触れてはいけない。しかし身体は一部壁に埋もれ込んでいて全く避けられそうにない。どうすればいい。考えろ、考えろ俺――!
「クソ、こんな所で――!」
寸での所で首だけ動かして爪を回避、身体ごと突っ込んできたことから、こちらの腕は伸ばせまいと判断したためその肘を内側から全力で押してやる。
「……避けさせたやったのにこの程度なの?勘違いだったかしら」
しかし女は微動だにしない。蝿が止まった程度にも思っていない風で、距離を取った後そのまま思案顔に至る。俺は手加減されていたことに憤る余裕もなく、ぼやけた視界でその女を見つめていた。
「違ったのならまあそれでいいわ。見逃すつもりもないけどね」
女は俺に近寄り顔を覗き込んでくる。
「よく見れば可愛い顔してるじゃない。いいわ。貴方、私のアダムになりなさいな」
そのまま左手で俺の頬をそっと撫でる。おぞましさに身が竦むが今度は物理的な理由でなく身動きが取れない。
「丁度良いわね。信仰も集めて帰ろうかしら。私はリリスモン。夜の魔女リリス。見ていなさい坊や」
女――リリスモンが吼えると、美術館が一瞬で半壊した。戻り始めていた警察と野次馬は呆然とした目で俺達、否、リリスを見つめていた。リリスモンは衆目を集めたまま宙へ浮かび、両腕を広げて語り始めた。
「我が名はリリスモン。夜の魔女。誘惑するもの。闇の娘。さあ、我が名を心に刻み込め。我が姿を脳裏に焼き付けよ――ファントムペイン」
リリスモンの口から紫の霧が吐き出される。それを浴びた男は皆膝を突いてリリスモンの名を呼び、刃物を持つ者は自ら首を掻き切り、警察官は皆頭を打ち抜いて倒れた。
その場に残された女は何が起こったか理解できず、リリスモンが彼女らをその爪で腐らせ始めてから漸く悲鳴を上げる。助けを請う者、逃げ惑う者、暴漢対策の道具を握りしめ立ち向かう者。全て皆平等にリリスモンは腐らせてゆく。それはあまりにも過激なサバトで。彼らは正しく悪魔に捧げられた生け贄であった。
俺はそれを目で追っていたが、そこに知った顔を見つけた。理解が追いついていないという風体でこの腐肉と血の臭い蔓延る惨劇を見つめていた彼女を視界に捕らえた途端、微動だにしなかった身体が何かに突き動かされるかの様に身体が動いていた。
「その人に……触れるなァ!」
「え……後、輩?」
俺の右腕は変質し、リリスモンの腐爪を受け止めていた。そしてその腕は腐り落ちることはなく。それはリリスモンにとっても想定外だった様で。
そして俺は、こんな状況だというのに不思議と落ち着いた気分で。身体に満ちる活力は今までに感じたことがないほど桁違いだった。
「な――こ、のォ!」
「先輩!早くここから離れて!」
「え――あ、分かった!」
負けるはずがない、と、そう思いながら。湧き出る自信とともに俺はその腐毒を自らの剛爪で押さえ込み、もがくリリスモンを後目に先輩を避難させる。先程は理解が追いついていないようだったが、しかし少し落ち着けばこんな時でも飲み込みは早い様で直ぐに走り去っていく。
「教えて貰えるか?お前は何者で、この腕は何なのか。俺が最近見ている夢とどんな関係があるのか」
先輩の足音が遠ざかったところで、リリスモンに問いを投げかける。リリスモンは先程までの余裕を欠片も見せず狼狽していた。
「貴方――ベルフェゴールじゃ、ないわね。貴方こそ答えなさい!ベルフェゴールを何処へやったの!?」
「知らねえよ。つか、質問してるのはこっちだ。質問事項一個追加な。その"ベルフェゴール"ってのは何だ」
問いかけながら、腐爪を握る圧力を強めていく。リリスモンは顔を苦悶に歪めながら、その爪がミシミシと音を立て始めた頃に口を開いた。
「分かった!答える――答えるから離しなさい!」
それに応じて腕を放すと、しかしリリスモンは突如として煙を吹きかけて来た。
「そう簡単に口を割ると思うなよ人間――!」
「チ――騙しやがったなこの!」
先程男達を自害させた煙だが、今の俺には目眩ましに過ぎない。それどころか濃霧の中でもリリスモンがどちらへ距離を取ったのか明確に察知できた。今まではリリスモンの動きは目で追うのが精一杯だったが、今では簡単に追い縋れるだろう。
「逃がすか――!」
両脚に力を込めると一足で距離を潰し――俺には格闘の心得などない――右腕を降り上げて叩き付ける。確かな手応えを感じると、俺の魔爪はリリスモンの腐爪を叩き壊していた。粉々になった右腕の破片が落ちた地面がたちまち湯気を上げて崩れていく。
「雄雄雄雄――!?」
右腕を失いつつも撤退を続けるリリスモンに追撃を仕掛けるも、雄叫びを上げながら詰め寄る俺の身体は跡一歩と言う所で制止した。
「こ、の――覚えておれ!いずれベルフェゴールを呼び覚ましてくれる!」
リリスモンの意に従うかのように、俺を影が縫い止める。右腕の魔爪を以てすれば影の拘束を引きちぎれるだろうが、身体の拘束を説いている間に奴は逃げ仰せるだろう。つまりは詰めを誤ったと。そういうことだ。
「クソ、待て――!」
影の拘束を振り解いたところ、既にリリスモンは姿を消していた。戦闘態勢を解除すると共に俺の腕は通常の物に戻り――そして気が付いた。生き残った人達が俺を見る畏怖の視線に。
「あ――」
俺が視線を向けると彼女らは怯え竦んで一歩後ずさる。それは当然の反応だろうし、俺自身このような頂上の現場に当事者でなく居合わせたのならばそうしただろう。故に彼女らを責めるつもりも彼女らに弁明するつもりもない。
しかし今回に限っては俺は当事者で、第一俺自体この状況を全くと言って良い程理解できていない。むしろ先程までの俺自身に対して他でもない俺が恐れを為している。
「――兎に角行くぞ、後輩」
自分の変貌と、場の空気に危うく気圧されて逃げ出してしまいそうだったが、いつの間にか戻って来ていた先輩が俺の腕を――それも右腕を――掴んで歩き出す。先輩、と言うより俺が近寄ると皆が恐れを露わにして離れて行くが、彼女に腕を掴んで貰っているというそれだけで、俺の心からは乱れが消え去っていた。またしても助けられたな、等とこの場にそぐわないことを考えながら、俺は先輩に付き従って死体の山をかき分けていった。